(トックリキワタ)
(備忘録)
第一部:創作舞踊
雑踊りなのに古典女踊りのような創作舞踊になっていたり、全体としてリズム感がない新作の創作舞踊だった。衣装負けのような創作で、踊りの質が落ちた印象。
恋焦がれなのに顔が笑っているような舞踊もあり、どこかやはり歌の中身にそぐわない構成だったりした。大賞作品は衣装の鮮やかさが際立ち、やはり鯉の滝登りにしては躍動t的な振り付けが弱いところも~。若衆踊りのリズミカルなところがもっと見たかった。雑踊りと古典女踊り、若衆踊りの差異が曖昧になっているのだろうか。
(以下、Noteに転載して中身を一部追記、変更しています。)
第二部:新作組踊「塩売」は物語の筋書きは興味深い。
古典音楽と八重山民謡が響き渡る舞台は、18世紀後半の八重山に大津波が押し寄せた歴史『明和の大津波』を背景にしている。
従来伝統組踊で幽霊(死霊)がr登場するのは「雪払い」と田里朝直の作品にあるだけだと認識しているが、どうなのだろう。
夢の場面が登場する沖縄芝居はいくつかあり、思いつくのは平安山英太郎作「義理の兄弟」だ。能の多くが死霊が登場する夢幻能になっているのに対して組踊はほとんどが時代は異なっても現世の物語になっている。
今回の第一回新作組踊・戯曲大賞作品『塩売』は現在の世相も暗に埋め込んだ新作組踊である。パンフレット『華風』の中に脚本と音楽(曲名、歌詞)も含めて掲載してほしかった。崎原綾乃さんの解説はあらすじが細かく紹介されていて、内容は分かりやすい。能「邯鄲」の構造も取り入れたという作者の言説を紹介し、見どころが終幕の島流しした息子を訪ねて富嘉伊島にやってきた父親と大津波で他界した息子の再会の場面になっている。そこが邯鄲の一炊の夢の場と重なっている。しかし、その中身は異なる。一場から四場まである作品の中身にコミットしたいが、時間がかかるのでここでは保留。
圧巻は津波に流された鳥小里之子と呼ばれたかつての息子が塩売りの姿と口上で登場し、白保節に乗せて一曲踊り、そして息子の踊りに合わせて父親も踊る。注目すべきは首里で住んでいた時は現在の引きこもりにやや似た所業、働くこともなく鳥かごの鳥と遊んでいたゆえに島流しされた息子が、心入替えて島の人々に溶け込み鳥小を養いながら昼は畑仕事、夜はいざり漁に出て収穫物を百姓に分け与えていた。また7月には念仏を謡い、正月になれば塩売になって島人に慕われていたというのだ。しかも父との対面の中で人頭税に苦しめられている島人の安念を王府に訴えてほしいということや、また祭祀(神遊び)の復活も願ったのである。いっしょに首里に戻ろうと言う父親に対し、鳥のように世界を飛び回り困っている人々を助けたいと語るのである。
津波で他界したとはいえ、若者の変貌ぶりは、決して昏くはない。島人のために生き、そしてさらにその思いを貫いていくという志が残されるのである。悲劇が希望や可能性を照らす作品になっている。ゆえに走馬灯(廻灯籠)の不思議な力の下、夢の中で再開した親子は「邯鄲」のこの世はすべて夢のようにはかない、の思いではなくそれを超えて未来への夢の可能性を暗示したのである。
楽劇の味わいは豊富な古典と八重山民謡によって高まった。笛や胡弓、太鼓の音色も、十分引き立てた。地方(謡)が良かった。立役の唱えには難がある神司の金城美枝子さんの完璧ではない台詞の他はそつなく流れた。台詞が覚えられなかった故に物語が一瞬凍結したのだ。子役は愛らしく、塩売・鳥小里之子役の上原崇弘が存分にその役柄を演じきった。口上、踊り、唱えと耳目を惹きつけた。父親役の東江裕吉さんも自責の念に苦しみながら息子の安否を気遣う重い父親の役を演じきった。脇役ながら死霊となった息子を引き立てた。
所で演出の嘉数道彦さんは、舞台の出来栄えに関してはすべてに責任が伴うと考えるのだが、台詞が完璧に覚えられない本番を披露したことに関して、その理由を伺いたい。役者の力量が悪かったとか、稽古不足だったとか、それもコロナ禍ゆえとかいろいろあるのだろうか。また舞台はせっかく張り出し舞台の設定でそれを舞台上に設営しての上演になった。予算の問題もあったのか、どうか、橋掛かり、上手、下手の出入りなど、興趣はあった。そうした登場人物の動き、所作の面白さはもっと追求(追究)されていい。やはり国立劇場おきなわは本式の組踊劇場ではない、ということが今後もっと論じられていいと考える。ウチナーンチュの事なかれ主義は、与えられたものをありがたくいただくで、その維持に四苦八苦しているのだろうか?県庁職員が維持管理に駆り出されている組織だ。沖縄県のオーセンティックな舞台芸術への感性や知性が問われている。
夢の中とは言えど、父親と息子の対面の場面は涙がこぼれた。しかし鷲の鳥の歌が流れ息子は飛んでいった。悠久のかなたへ。斬新な作品の誕生を喜びたい。
(『華風』2021年3号33ページより転載)
(『華風』27ページより転載)
(備忘録)
第一部:創作舞踊
雑踊りなのに古典女踊りのような創作舞踊になっていたり、全体としてリズム感がない新作の創作舞踊だった。衣装負けのような創作で、踊りの質が落ちた印象。
恋焦がれなのに顔が笑っているような舞踊もあり、どこかやはり歌の中身にそぐわない構成だったりした。大賞作品は衣装の鮮やかさが際立ち、やはり鯉の滝登りにしては躍動t的な振り付けが弱いところも~。若衆踊りのリズミカルなところがもっと見たかった。雑踊りと古典女踊り、若衆踊りの差異が曖昧になっているのだろうか。
(以下、Noteに転載して中身を一部追記、変更しています。)
第二部:新作組踊「塩売」は物語の筋書きは興味深い。
古典音楽と八重山民謡が響き渡る舞台は、18世紀後半の八重山に大津波が押し寄せた歴史『明和の大津波』を背景にしている。
従来伝統組踊で幽霊(死霊)がr登場するのは「雪払い」と田里朝直の作品にあるだけだと認識しているが、どうなのだろう。
夢の場面が登場する沖縄芝居はいくつかあり、思いつくのは平安山英太郎作「義理の兄弟」だ。能の多くが死霊が登場する夢幻能になっているのに対して組踊はほとんどが時代は異なっても現世の物語になっている。
今回の第一回新作組踊・戯曲大賞作品『塩売』は現在の世相も暗に埋め込んだ新作組踊である。パンフレット『華風』の中に脚本と音楽(曲名、歌詞)も含めて掲載してほしかった。崎原綾乃さんの解説はあらすじが細かく紹介されていて、内容は分かりやすい。能「邯鄲」の構造も取り入れたという作者の言説を紹介し、見どころが終幕の島流しした息子を訪ねて富嘉伊島にやってきた父親と大津波で他界した息子の再会の場面になっている。そこが邯鄲の一炊の夢の場と重なっている。しかし、その中身は異なる。一場から四場まである作品の中身にコミットしたいが、時間がかかるのでここでは保留。
圧巻は津波に流された鳥小里之子と呼ばれたかつての息子が塩売りの姿と口上で登場し、白保節に乗せて一曲踊り、そして息子の踊りに合わせて父親も踊る。注目すべきは首里で住んでいた時は現在の引きこもりにやや似た所業、働くこともなく鳥かごの鳥と遊んでいたゆえに島流しされた息子が、心入替えて島の人々に溶け込み鳥小を養いながら昼は畑仕事、夜はいざり漁に出て収穫物を百姓に分け与えていた。また7月には念仏を謡い、正月になれば塩売になって島人に慕われていたというのだ。しかも父との対面の中で人頭税に苦しめられている島人の安念を王府に訴えてほしいということや、また祭祀(神遊び)の復活も願ったのである。いっしょに首里に戻ろうと言う父親に対し、鳥のように世界を飛び回り困っている人々を助けたいと語るのである。
津波で他界したとはいえ、若者の変貌ぶりは、決して昏くはない。島人のために生き、そしてさらにその思いを貫いていくという志が残されるのである。悲劇が希望や可能性を照らす作品になっている。ゆえに走馬灯(廻灯籠)の不思議な力の下、夢の中で再開した親子は「邯鄲」のこの世はすべて夢のようにはかない、の思いではなくそれを超えて未来への夢の可能性を暗示したのである。
楽劇の味わいは豊富な古典と八重山民謡によって高まった。笛や胡弓、太鼓の音色も、十分引き立てた。地方(謡)が良かった。立役の唱えには難がある神司の金城美枝子さんの完璧ではない台詞の他はそつなく流れた。台詞が覚えられなかった故に物語が一瞬凍結したのだ。子役は愛らしく、塩売・鳥小里之子役の上原崇弘が存分にその役柄を演じきった。口上、踊り、唱えと耳目を惹きつけた。父親役の東江裕吉さんも自責の念に苦しみながら息子の安否を気遣う重い父親の役を演じきった。脇役ながら死霊となった息子を引き立てた。
所で演出の嘉数道彦さんは、舞台の出来栄えに関してはすべてに責任が伴うと考えるのだが、台詞が完璧に覚えられない本番を披露したことに関して、その理由を伺いたい。役者の力量が悪かったとか、稽古不足だったとか、それもコロナ禍ゆえとかいろいろあるのだろうか。また舞台はせっかく張り出し舞台の設定でそれを舞台上に設営しての上演になった。予算の問題もあったのか、どうか、橋掛かり、上手、下手の出入りなど、興趣はあった。そうした登場人物の動き、所作の面白さはもっと追求(追究)されていい。やはり国立劇場おきなわは本式の組踊劇場ではない、ということが今後もっと論じられていいと考える。ウチナーンチュの事なかれ主義は、与えられたものをありがたくいただくで、その維持に四苦八苦しているのだろうか?県庁職員が維持管理に駆り出されている組織だ。沖縄県のオーセンティックな舞台芸術への感性や知性が問われている。
夢の中とは言えど、父親と息子の対面の場面は涙がこぼれた。しかし鷲の鳥の歌が流れ息子は飛んでいった。悠久のかなたへ。斬新な作品の誕生を喜びたい。
(『華風』2021年3号33ページより転載)
(『華風』27ページより転載)