記憶の中では酔ぱらった島正廣さんが登場したところで感じた空気の重さが残っていた。また沖縄に移住したないちゃーの男女が模合の真似事をしていたことなどである。しかし今回ディテールがはっきり浮かび上がってきた。12年前に受けた感銘とも異なる何かがそこから派生してきたのだと言える。それが何なのか、やはり増田靜の劇作品はいいなー、彼女の独特な(繊細な)人と人の肌合いの隙間を感じ取る感性は、もう場面を切り取った舞台の詩そのものだと言えようか。時代の感性としてはすでに彼女は福岡から沖縄にしばし移住してきた者としての差異や違和感を先取りして、その自らの位地を作品そのものに封印したのかもしれない。
最近大学教授でウチナームークの男が呟いたことばが思い出された。「いつまでもウチナーンチュになれない」と言ったのである。沖縄の女性と結婚して生まれた子供たちにとってはウチナーは故郷かもしれないが、「俺にとってはいつまでも異郷だ」というのである。疎外感と落差、差異の微妙な隙間はそこにあり続ける。その隙間で孤絶感を覚えているのらしい初老の男性のことばは、「どうせ帰るんでしょう」とコンビニ店長の仲村渠(今回田原 雅之)が言い切ったことばとどう絡んでくるのだろうか。増田靜も沖縄から東京に飛び、それから故郷の福岡に戻って行ったと聞くが、沖縄にしばし居住しそこから引き払った者たちも、また係累を得て踏みとどまり住み続ける者たちにとってもどこかに小さな空洞がありつづけるのかもしれない。それは20世紀半ばから表象として登場してきたディアスポラのことばとも呼応するのだろうか?
喪失者たち、モラトリアムの自分探しの者たち、どこか吹き溜まりの逃げ場のような沖縄の空間、その沖縄そのものは犠牲なり収奪されし場/者たちとしてのカノンだと、研究者は国際学会の研究発表の場でことばに出したりもする。故郷はどこにあるのか?本来の故郷はありえるのか?魂の拠り所はどこにありえるのか?古い御嶽に安住しているのだろうか?
ネットを通じて知り合ったないちゃーずがお互いの憑代としての空間をもとうとする。停滞感が確かに流れていた。どうも初演のころはあまり気にならなかった浮遊感が迫ってきた。模合をまねる彼らの疑似的沖縄、物まね的模合のありようもどことなく作り物めいている。公務員の単身赴任の福岡にしても待ってもこない妻子を待ちわびながら模合を開きHPで沖縄情報を更新し続けている。模合はお金を順序良くとっていくのだが、福岡はなぜか自分の番だのに、お金を受け取らない。12月に望みを託して劇は終わる。妻子が沖縄にやってくるかどうかの賭けのような終わり方は、沖縄に住む移住者たちの心の綾(隙間)をまた描いてもいた。いつまでたってもよそ者の空気、いつまでたっても異端者でありえるゲイカップルの北川と北前もいる。寡黙であることが性的マイノリティーの彼らの位地を暗示していたが、以前はあまり気にならなかった二人である。
福岡に校長先生的なんですよ、と北前が言う。北海道から沖縄にやってきた二人にあまりことばのやり取りをしない彼だが、福岡が話し始めるとなぜか二人はいつも一緒に席を立つ。ダイビングインストラクターの唯一の女性七尾は冷めた視点で見ている。タバコが三本、小さい劇場で実際に七尾(幸地尚子)が吸い、ニコチンの煙が流れた。それは禁煙者にはきついね。1回ならまだしも3回はきつい。換気は設置されているが、狭い空間だから気になった。海の世界の神秘を体得している七尾は実は移住者たちの中でもっとも沖縄を自然の身体の一部として取り込んでいたのかもしれない。彼女のことばを追ってみたくなった。
日本から見た沖縄、沖縄に住むないちゃーの視点、北海道の人間にとっては沖縄を含めすべてがナイチだということなど、新たな認識もあって、興味深いと思った。北から南と細長い日本列島の多様性はあって、単にやまとぅとうちなーの二項対立に留まらないユニークさもありえる。沖縄への移住者たちの「関わりの空疎さ」と新聞の見出しは書いている。それはそのまま酔った仲村渠の酔って(豚のように?)いびきをかいて居酒屋で寝る姿と対照的だったのかどうかー。コンビニでバイトしていた女の子が三日でいきなりやめたりもする。避難場所、いつまでも観光客気分の移住者たちという視点は貫かれてもいるが、ディアスポラの感性・陥穽がそこに見え隠れする。もはや誰でもあり誰でもない存在の限りない薄さと熱さ(厚さ)も交差していくのだが、浮遊的なものが関係の絶対性から全く切り離されているわけではない。関係性はそこにでんとしてある。それが切れたりつながったりしているのだが、「ないちゃーず」たちの12年前のありようが現在と重なっているのかどうか。
面白いと思ったのは出演している役者との対話の中で母親がないちゃーで父親がうちなーんちゅだったり、逆父親がないちゃーで母親がうちなーんちゅだったり、かなりハイブリッドな人間関係の輪の広がりがある、XX人、XXちゅが無化されていくのかどうかー。アイデンティティーの複雑さがあるわけだが、自分のアイデンティティを意識する時、日本人の父母の出自を上段に置く無意識のことばを感じてハットさせられた。つまり無意識の沖縄差別の目線がそこに内在していたのではないのか、そして酔った店長のそれらを含めて沖縄の象徴でもあった。どしっと酔っぱらってそこにいる(ある)沖縄である。
見せないが見えてきた優劣の感性があった。そしてそれらを含めて存在が強烈にあり続ける沖縄というフィクション(幻想)の島もまたー。身近に感じる大学知識人には正義感で沖縄のためにという騎士道的精神の者たちもいれば、職探しのついでの者たちや、故郷に戻れないゆえにやむなく沖縄に住み続ける者たちもいる。
全く沖縄の状況はことばにならないが、かれらにとってはポークおにぎりやダイビングやソバなどが話題になる。模合は何だろうか?短い居酒屋の交流会の中から伝わってくるある種の関係性のシュールさが沖縄の置かれたないちゃーずたちの立ち位置の不気味さもまた沖縄そのものの実態(現実)にからんでいるのかもしれないね。(どうもつじつまがー)誤字脱字など後で訂正する予定。
そういえば、「宝くじがあたったら、下々の者たちとつきあわない」と、言い放つ仲村渠がいた。透徹した金の原理が流れている。金さえあれば、下々の者とつきあわない者たちの存在もあるということだが、金がこの詩劇の中で現実のシンボルになっている。模合の主人公は金である。神田川が目を丸くして見つめていたのも金である。即物的な金の現実がある。縛られているものの正体は実は金でもあったのかもしれない。金、金、金、模合の金は何のため?互助会的な模合なのか?
演技はさもそのような人たちがいるねと思える演技だった。ゲイカップルの雰囲気も居酒屋の女の子前川の雰囲気もリアルに見えた。