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(昨日大学からの帰り、末吉公園を今度は裏の入り口から歩きながらビデオを撮った。鶯の鳴き声は聞こえなかった。末吉宮からさらに後ろに歩いていったら「子の広場」があり、いろいろな神を祭っている場に行き合わせた。先週見た女郎蜘蛛もそのネットもすでになかった。しかしその「子の広場」の入り口で女郎蜘蛛がネットの真ん中に潜んでいた。枯れ葉がネットにかかっているだけだった。この写真は以前撮った蜘蛛である)
若者が言った言葉が強烈だった。つまり一日400人が自殺か変死しているのが日本である。若者が言うには「戦死者より変死者、自殺者の数が多い」日本なのだそうだ。仮に変死者の半分が自殺者だとして、推計3万人に9万人足すと、12万人、それに行方不明者を含めると15万人が自殺人口に近いと見ていい日本みたいだよ。
そこでフーコが書いたことを思い出す。「日常の生活そのものが戦争で実際の戦争はその氷山から突き出た一部なんだ」のようなことを書物の中で書いていたと記憶している。以前論文を書いた時に引用したのだがー。論文を見ればもっと正確な引用ができるのだが、まぁそのようなことを書いていたのは確かだ。
「だからみんな生きていくことに精一杯なんだよ。生きること、生き続けることが闘いのようなものだから、みんな凄いよね」と言い切った若者のことばは、最近弱者は殺せのような空気が伝染病のようにメディアから拡散しているような気配を感じるゆえに、インパクトがあった。
「あのね、知っている?日本では毎年変死者が18万人だよ。遺書がなければ自殺と認められないんだよ」←それを知らなかったのが事実である。ただこの綺麗に見える日本という国が、国のシステムについていけないと多くの国民に絶望を与えているということがわかる。「東京で電車の遅れはたいていが飛び込み自殺らしいよ」も、ホラー映画ならず日常の不条理=現実だということに、この世のシュールさとリアルさが混合する社会の不気味さ=現実=リアリティーが迫ってくるのも確かだ。かといって何かなせるかというと、自らの生の闘いで精一杯で、つまり生きることに精一杯で、自らのできることで、生き続けることで精一杯だということは誰しも同じなのだといえよう。
だからこそだけれど、安寧を求めるわけだけれども、適者生存、進化論、競争原理、やプログラマティズムだけで世界がダイナミックに動いているのだとは言えない。新世界秩序という言葉が10年前というか今世紀の初めから唱えられているが世界がますます一つの方向性に集約されるのだろうか?トインビーが1960年代に予測した世界に近づいているのだろか?少数の有能な支配層と其の他多くの市民である。価値観のすり合わせ、国際法、経済システムの世界共通ルールということになるのだろか。TPP、TTIP、TISAなど国民国家という従来の国家概念・枠組みを越えた地域連合、ユニオンのような枠組みがさらに出来上がっていくのだろうか?ナショナリズムは、後退だということになるか、どうか?国家の垣根を越えていく経済の流れがあり、グローバル(越境し、世界的規模)で動いていく経済活動、軍事活動があり、それに伴って価値観を共有する陣営のブロックができていくようだ。21世紀の半ばまで生きることができれば、新しい世界の可能性を見たい。其の前に世界大戦が勃発しないことを念じるばかりである。