(マリーと呼ばれる女:座喜味米子さん、校長役の八木政男さん、子供たち)
慰霊の日、終戦後の沖縄、その収容所の人間模様を舞台にした新作沖縄芝居のリハを見に行った。台本を以前コピーしていただいていたが、実際の生身の舞台でどう変わったか関心を持っていた。来る7月17日「花染ぬ手布ー遊女(じゅり)の表象」を舞台化する役者、吉田妙子さんと玉木伸さんも出ているお芝居である。彼らがどのように演じているか、演じるかも関心の焦点である。
「九年母の木の下」では上原直彦さん脚本、北村三郎さん演出である。音楽はフェーレーの徳原清文さん。「収容所内での郵便業務」開始と同時に人々はそれぞれに生き別れた家族との再会の為に収容所を離れていく。あるいは解放された村や町に戻っていく。あるいは自分の家を多くの人々の避難所(収容地)として提供した老婆の姿もある。
老婆役の吉田妙子さん、彼女の演技は他を圧倒していた!長身の二枚目が玉木伸さん
楽屋でくつろぐ玉木 伸さん、瀬名波孝子さん、 上原直彦さん、吉田妙子さん
とある北部の収容所の断面を切り取って見せたお芝居である。終戦直後からしばらく続く収容所の生活風景である。意外にも穏やかに物語は展開していく。急激な人間ドラマが展開するわけでもない。ギターを奏でる男の唄がノスタルジーを掻き立てていた。
また終りようのない収容所の生活の中の光があったこと、その辺をもっとお話してみたい。(光は闇も抱えているが、その強烈な闇は浮上してこなかった)
この芝居はドラマ性が弱かった。格別何かが起こるわけではない。リアリティーはその家の持ち主の老婆の吉田妙子さんだけだった!台本に対話がなく説明調に終始した、それは台本の上原直彦さんのセンスの問題である。楽屋でお話した時のエピソードの方が実はもっと面白かった。郵便サービスが開始され、次々収容所から出て行った方々は基地として囲い込まれなかった村々や町の出身だったのである。つまり広大な嘉手納基地周辺の人々は収容所からなかなか出してもらえなかった事など。米軍は上陸の前からすでに占領の図面を描いていたわけで、それにのっとって政策(文化政策も含め)が成されていたのである。
収容所にあった諸々のドラマは複雑で人間の死・俗・性・聖・渇望・希望がドロドロに溢れかえっていたと想像できる。それがなおざりにされ、ノスタルジアで終わった。アメリカ万歳の斉唱と身体を売るマリーの姿とMPの姿にその後の沖縄の経緯が予告される。生きるために時の支配者に身をゆだねるウチナーンチュの姿がある。基地ができ視力を失ったギター弾きの男にもクラブなどでの仕事があるという台詞がある。おそらく上原さんのお人柄なんだろう。おだやかに時が流れる。もっと激しい何かがそこにあったとしても彼は書けないのである。時代の趨勢に流れていく。それらをありのままに思いでの中の風景を描いて見せたという事なのだろう。そして演出はもっと立体的に描くこともできただろう。集団演技の難しさがある、舞台に動きがない絵画のような流れもまぁ、それで良かったとも言えないが、終幕は、沖縄芸能・芝居へのエールのような閉じ方である。
沖縄芝居には面白い作品が結構たくさんある。しかし上演されないままである。それらを舞台化する仕組みがもっと成されたらと思う。作品の一覧表を作って、県はもっと応援したらどうだろう?芝居脚本化も一度火はついたが断ち切れたままである。組踊台本はかなり充実してきているが、沖縄芝居は弱い!文化政策はその辺にも目を向けてほしいものだ!
慰霊の日、終戦後の沖縄、その収容所の人間模様を舞台にした新作沖縄芝居のリハを見に行った。台本を以前コピーしていただいていたが、実際の生身の舞台でどう変わったか関心を持っていた。来る7月17日「花染ぬ手布ー遊女(じゅり)の表象」を舞台化する役者、吉田妙子さんと玉木伸さんも出ているお芝居である。彼らがどのように演じているか、演じるかも関心の焦点である。
「九年母の木の下」では上原直彦さん脚本、北村三郎さん演出である。音楽はフェーレーの徳原清文さん。「収容所内での郵便業務」開始と同時に人々はそれぞれに生き別れた家族との再会の為に収容所を離れていく。あるいは解放された村や町に戻っていく。あるいは自分の家を多くの人々の避難所(収容地)として提供した老婆の姿もある。
老婆役の吉田妙子さん、彼女の演技は他を圧倒していた!長身の二枚目が玉木伸さん
楽屋でくつろぐ玉木 伸さん、瀬名波孝子さん、 上原直彦さん、吉田妙子さん
とある北部の収容所の断面を切り取って見せたお芝居である。終戦直後からしばらく続く収容所の生活風景である。意外にも穏やかに物語は展開していく。急激な人間ドラマが展開するわけでもない。ギターを奏でる男の唄がノスタルジーを掻き立てていた。
また終りようのない収容所の生活の中の光があったこと、その辺をもっとお話してみたい。(光は闇も抱えているが、その強烈な闇は浮上してこなかった)
この芝居はドラマ性が弱かった。格別何かが起こるわけではない。リアリティーはその家の持ち主の老婆の吉田妙子さんだけだった!台本に対話がなく説明調に終始した、それは台本の上原直彦さんのセンスの問題である。楽屋でお話した時のエピソードの方が実はもっと面白かった。郵便サービスが開始され、次々収容所から出て行った方々は基地として囲い込まれなかった村々や町の出身だったのである。つまり広大な嘉手納基地周辺の人々は収容所からなかなか出してもらえなかった事など。米軍は上陸の前からすでに占領の図面を描いていたわけで、それにのっとって政策(文化政策も含め)が成されていたのである。
収容所にあった諸々のドラマは複雑で人間の死・俗・性・聖・渇望・希望がドロドロに溢れかえっていたと想像できる。それがなおざりにされ、ノスタルジアで終わった。アメリカ万歳の斉唱と身体を売るマリーの姿とMPの姿にその後の沖縄の経緯が予告される。生きるために時の支配者に身をゆだねるウチナーンチュの姿がある。基地ができ視力を失ったギター弾きの男にもクラブなどでの仕事があるという台詞がある。おそらく上原さんのお人柄なんだろう。おだやかに時が流れる。もっと激しい何かがそこにあったとしても彼は書けないのである。時代の趨勢に流れていく。それらをありのままに思いでの中の風景を描いて見せたという事なのだろう。そして演出はもっと立体的に描くこともできただろう。集団演技の難しさがある、舞台に動きがない絵画のような流れもまぁ、それで良かったとも言えないが、終幕は、沖縄芸能・芝居へのエールのような閉じ方である。
沖縄芝居には面白い作品が結構たくさんある。しかし上演されないままである。それらを舞台化する仕組みがもっと成されたらと思う。作品の一覧表を作って、県はもっと応援したらどうだろう?芝居脚本化も一度火はついたが断ち切れたままである。組踊台本はかなり充実してきているが、沖縄芝居は弱い!文化政策はその辺にも目を向けてほしいものだ!