組踊のネット逍遥をしていると、『沖縄物語』(財団法人 沖縄観光コンベンションビューロー )のサイトがあり、どうも沖縄観光情報WEBサイトとある。その中で嘉数道彦さんが【麗しき「組踊」の世界】の解説をUPしている。そしてその中身に驚いた。以下の文章がある。
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「組踊」は、歌三線(琉球古典音楽)、唱え(首里の方言や大和言葉の台詞)、踊り(琉球舞踊)が調和した総合芸術。美しい調べ、典雅な世界に身を委ねていると、いつのまにかいにしえの琉球王朝にタイムスリップしたような感覚にとらわれるはずです。現代劇と比べて登場人物の所作が非常にゆったりとしており、動きが抑制されているのが大きな特徴で、基本的に背景転換や大掛かりな装置がないため「立方(たちかた)」と呼ばれる"演者"と「地謡(じうてー)」という"音楽を奏でる"人々の極められた技と芸をじっくり堪能することができるのです。
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注目してほしいのは唱え(首里の方言や大和言葉の台詞)である。昨今のユネスコの認識でも琉球諸語として記載されている。しかし首里方言である。しかも意図的に大和言葉の台詞とある。大和言葉はあっても首里言葉はないのである。琉球王府時代の言語であり、その時代に創作・上演された組踊は決して方言ではなく一国の言語であったはずではないのだろうか?嘉数さんの認識なのか、それとも新しい局長の元での歪みがそのような言葉になったのか、興趣がわくと共に、政治的に改ざんされる事例に思えた。またこのサイトでは現代組踊は大胆に宣伝しても新作・創作組踊についての同じ規模の大胆な広報はなされない!なぜ?現代組踊のサブカルチャー的商業ベースもいいが、大城立裕氏が創作した新作組踊の文化的価値を評価する視点がないのは、新しい局長さんの認識不足で、もっとセンスを深めてほしいと思う。
広報されることばには必ず書く者、組織の意図がある。その意図の歪みを感じた時、それに対して黙ることも可能だが、しかしそれに異論を唱えるのも民主主義の在り様だと考える。どうも沖縄県政は文化を捻じ曲げ、ゆがめる可能性をまた「政体」として持っているのだという兆しに思えて危惧せざるをえない。
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今日(6月26日)、「国立劇場おきなわ」で嘉数さんにお会いして上記の件について立ち話する機会があった。どうもわたしの誤解があったようで、彼はその文章を「直に書いてはいない」という事が分かった。つまり「沖縄観光コンベンションビューロー」の担当者が嘉数さんにインタビューをしてまとめたのが、その文章だという事である。検証しなかったので、どう表現されたのかよく分からなかったと嘉数さんはお話されていた。わたしはなぜか首里の方言という五文字がとても気になったのである。その点に関しては、「しまくとぅば条例」もあり、されど「しまくとぅば」という形象にも疑問を持っていて、その点に関してはすでにこのブログで自説を展開したので省略する。つまり独立言語としてあった。口語であっても、琉球王府時代に創作された組踊でありその詞章だった。しかも表記されていますよね。戯曲として成り立っている。それを首里の方言とするのはいかがなものだろうか、と疑問を覚えたのである。改めて伊波普猷編集の「琉球戯曲集」を開いてみると、冒頭の折口信夫の序文「組踊り以前」はいつ読んでもとても示唆的で多くの課題がそこから読みとれるようだ。その後の矢野輝雄さんのご研究などこの折口の序文を基本にしているように見受けられる。
問題は言語の表記だが、「國語は民族の呼吸である」と書き記す伊波普猷は琉球語という記述をしている。ならば組踊は琉球語と一部日本の古語で表出された戯曲というのが妥当ではないだろうか。それにローマ字の表記も記されているのは今後の指針になりえよう?
XX方言は、日本語に包摂される位置づけだが、わたし自身、2003年にインドのジャイプールで研究発表した時、方言として紹介した。ところがその後、言語学者の努力の成果もあり、また世界が多文化主義の潮流にのり、世界の少数民族の言語を保存・継承していくことの重要さを推進していく方向に走った。その世界の意識の涵養の中で琉球諸語は独立言語として認知されるようになったと理解している。ユネスコが琉球諸語を危機言語として認定したのである。
最も琉球諸語を同列に並べたのはそれでいいのか、問題も含んでいると思う。しまくとぅばの日条例がその六つの琉球諸語を同一化した視点の上で登場した表辞でもあると考えるゆえである。
伊波普猷が琉球語と表記した時、首里言葉を念頭に置いていたのではないだろうか?宮古や八重山、国頭ことばなどの前に琉球王府中枢の言語体系を意識していたと考えられる。そして琉球・沖縄文化の中軸にあったのが首里言葉であり那覇言葉である。そう考えるのだが、わたしは言語学を体系的に学んできたものではない。近代以降の沖縄語/文化排斥、日本語/文化習得の過程で差別化された琉球・沖縄の言語に対する思いが昨今深くなったという経緯がある。それは沖縄演劇(組踊/沖縄芝居)との係わりの中で深まってきた認識である。
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「組踊」は、歌三線(琉球古典音楽)、唱え(首里の方言や大和言葉の台詞)、踊り(琉球舞踊)が調和した総合芸術。美しい調べ、典雅な世界に身を委ねていると、いつのまにかいにしえの琉球王朝にタイムスリップしたような感覚にとらわれるはずです。現代劇と比べて登場人物の所作が非常にゆったりとしており、動きが抑制されているのが大きな特徴で、基本的に背景転換や大掛かりな装置がないため「立方(たちかた)」と呼ばれる"演者"と「地謡(じうてー)」という"音楽を奏でる"人々の極められた技と芸をじっくり堪能することができるのです。
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注目してほしいのは唱え(首里の方言や大和言葉の台詞)である。昨今のユネスコの認識でも琉球諸語として記載されている。しかし首里方言である。しかも意図的に大和言葉の台詞とある。大和言葉はあっても首里言葉はないのである。琉球王府時代の言語であり、その時代に創作・上演された組踊は決して方言ではなく一国の言語であったはずではないのだろうか?嘉数さんの認識なのか、それとも新しい局長の元での歪みがそのような言葉になったのか、興趣がわくと共に、政治的に改ざんされる事例に思えた。またこのサイトでは現代組踊は大胆に宣伝しても新作・創作組踊についての同じ規模の大胆な広報はなされない!なぜ?現代組踊のサブカルチャー的商業ベースもいいが、大城立裕氏が創作した新作組踊の文化的価値を評価する視点がないのは、新しい局長さんの認識不足で、もっとセンスを深めてほしいと思う。
広報されることばには必ず書く者、組織の意図がある。その意図の歪みを感じた時、それに対して黙ることも可能だが、しかしそれに異論を唱えるのも民主主義の在り様だと考える。どうも沖縄県政は文化を捻じ曲げ、ゆがめる可能性をまた「政体」として持っているのだという兆しに思えて危惧せざるをえない。
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今日(6月26日)、「国立劇場おきなわ」で嘉数さんにお会いして上記の件について立ち話する機会があった。どうもわたしの誤解があったようで、彼はその文章を「直に書いてはいない」という事が分かった。つまり「沖縄観光コンベンションビューロー」の担当者が嘉数さんにインタビューをしてまとめたのが、その文章だという事である。検証しなかったので、どう表現されたのかよく分からなかったと嘉数さんはお話されていた。わたしはなぜか首里の方言という五文字がとても気になったのである。その点に関しては、「しまくとぅば条例」もあり、されど「しまくとぅば」という形象にも疑問を持っていて、その点に関してはすでにこのブログで自説を展開したので省略する。つまり独立言語としてあった。口語であっても、琉球王府時代に創作された組踊でありその詞章だった。しかも表記されていますよね。戯曲として成り立っている。それを首里の方言とするのはいかがなものだろうか、と疑問を覚えたのである。改めて伊波普猷編集の「琉球戯曲集」を開いてみると、冒頭の折口信夫の序文「組踊り以前」はいつ読んでもとても示唆的で多くの課題がそこから読みとれるようだ。その後の矢野輝雄さんのご研究などこの折口の序文を基本にしているように見受けられる。
問題は言語の表記だが、「國語は民族の呼吸である」と書き記す伊波普猷は琉球語という記述をしている。ならば組踊は琉球語と一部日本の古語で表出された戯曲というのが妥当ではないだろうか。それにローマ字の表記も記されているのは今後の指針になりえよう?
XX方言は、日本語に包摂される位置づけだが、わたし自身、2003年にインドのジャイプールで研究発表した時、方言として紹介した。ところがその後、言語学者の努力の成果もあり、また世界が多文化主義の潮流にのり、世界の少数民族の言語を保存・継承していくことの重要さを推進していく方向に走った。その世界の意識の涵養の中で琉球諸語は独立言語として認知されるようになったと理解している。ユネスコが琉球諸語を危機言語として認定したのである。
最も琉球諸語を同列に並べたのはそれでいいのか、問題も含んでいると思う。しまくとぅばの日条例がその六つの琉球諸語を同一化した視点の上で登場した表辞でもあると考えるゆえである。
伊波普猷が琉球語と表記した時、首里言葉を念頭に置いていたのではないだろうか?宮古や八重山、国頭ことばなどの前に琉球王府中枢の言語体系を意識していたと考えられる。そして琉球・沖縄文化の中軸にあったのが首里言葉であり那覇言葉である。そう考えるのだが、わたしは言語学を体系的に学んできたものではない。近代以降の沖縄語/文化排斥、日本語/文化習得の過程で差別化された琉球・沖縄の言語に対する思いが昨今深くなったという経緯がある。それは沖縄演劇(組踊/沖縄芝居)との係わりの中で深まってきた認識である。
「首里方言」はユネスコが、沖縄語、国頭語、宮古語、八重山語、与那国語、などと分類した沖縄語のなかの方言としての「首里方言」であり、「大和言葉」はほぼ和語の意味(言い換え)で使われていると感じました。先生の危惧される「歪み」「政治的に改ざん」というほどの重要性は感じ取れませんでした。先生が敏感になられている理由は単に、言葉の選択だけではないように推察しますので、そのあたりをお示しいただけると幸いです。勝手なお願いですが。
例えば、仰るように「政治的な改竄」であった場合、捨て置けないことでしょうから。
歴史的仮名遣いで記述され、さらにローマナイズしていて口語(音韻)が分かりやすく感じます。
組踊の表記は首里の方言ではなく、琉球語とした方が無難ではないでしょうか?沖縄語でもない琉球語です。なぜユネスコは琉球語としなかったのでしょう?琉球諸語としました。琉球語の中に諸語があるという認識でいいのだろうか?昨今はネットで検索すると日本語でも英語でも琉球語、Ryukyu Languageと出てきますね。
言語学の論理的フレームはほとんどが西欧の体系を中心とした各論の展開に見えます。人文系の学術(論文)体系もその基本的論理のフレームは西欧の論で成り立っているのがこの間の筋書きで、どれだけ日本なり沖縄なりアジアの独自の論理体系がなされてきたか、その辺は世界を照射する時、弱いようです。
言語学も方言学も世界の知的フレームにあてはめざるをえないのはまた世界基準というモノサシがあるからなのかもしれません。それが共通理解を深めているというのも道理なのでしょう。
ブログの中身は少し追記しました。
現仲井間県政に関しては、生活のすべてが政治そのものだと考えるゆえに、つまり存在はそのまま政治的存在であることから逃げられないのですから、あらゆる事象が文化政策も含め政治の表象そのものだと考えるゆえに、県政のありようには注視する必要があります。文化政策・行政のリーダーの感性・思想・宗教・政治・ビジョンはすべて関係しあっていますよね。
県の文化政策の実際・実態に対して、多様な形で市・町・村(民)は意志表示をする必要があると考えます。
本題ですが「首里の方言」という表記について、嘉数さんはどうおっしゃっていましたか?コンベンションビューローの担当者の表記を肯定されたのでしょうか、それとも異議ありとなされたのでしょうか。興味のあるところです。せっかく、お話になったのですから、結果をぜひお示しください。異議を表明されたのなら、訂正を申し入れる力添えをして差し上げてください。
また、私のコメントに返信を頂き、感謝します。
>沖縄語の中の方言としての首里語ですか?
とありますが、新しい用語ですね。
私は、先生の例示にしたがって「沖縄語のなかの首里方言」という言い方はしましたが、首里語とは言っていません。助詞「の」を巡って議論がなされているさなかですから、私が独立言語を方言と誤認しているかのような印象を他の読者に与えないよう、言い添えておきます。
しかし、返信を頂いたことで、私と先生がかみ合わない理由がわかったような気がします。
>xx方言は、日本語に包摂される位置づけだが
とお書きになっておられます。
ユネスコの位置付けを受け入れることを共通の前提として、私は、首里方言は独立言語である「沖縄語」に包摂されるとの認識でした。沖縄語を琉球王国という国の国語としてみた場合、東條操のいう「一国語内で分派したものに限って方言という」という定義にも合致するのではないかと考えたからです。一方、先生は「方言」という用語を即「日本語に包摂」ととらえていらしたのですね。
ブログに追記されたように、伊波の提唱するところの「琉球語」を引いての
>組踊は琉球語と日本の古語で表出された戯曲
というご説明には理があると思います。もっとも、組踊の詞章は「口語」ではなく「文語≒韻文」で表記されているのではないか。戯曲が成立したゆえに方言ではない(=方言では戯曲はかけない)というのは、根拠に乏しいのではないかという疑問が残ります。
沖縄語でなく琉球語だ、という主張も、先生の文脈の上では一定理解できます。支配・被支配、抑圧・被抑圧について積極的に発言されているブログで、こと言葉に関しては
>琉球諸語を同一に並べたのはそれでいいのか
と王国の支配体制による言語序列を無批判に受け入れて(むしろ肯定している)いるように見えるのは違和感があります。
最後に、見ず知らずの者の勝手なお願いを聞き届け、わざわざ嘉数さんにお会いになるなどお手間をおかけしたことに感謝します。長文失礼いたしました。
「政治的な改竄」に関してわっささんが追及されている点は、なるほどと思います。その点に関しては、微妙な点があり、ここで展開するのは今ご遠慮したいです。ただ総合芸術としての演劇(組踊、沖縄芝居、民俗芸能、あらゆる
Performing Arts)は即社会との関係性は深く、その点を整理して書き込むとかなりの分量になりますね。最後にコメントされている事ですが、カノン化は日本の文化政策ともからんできますよね。一連の流れは、かなり政治=文化政策そのものとしてとらえざるをえません。
大城立裕氏の新作組踊に対する位置づけ、それを評価する私の姿勢もまた「政治的な改竄」ではないかというご指摘も「なるほど」と思います。実際8月のIFTR国際学会で氏の新作組踊について研究発表する予定です。「さらば福州琉球館」についても英語で発表しました。それらの論考は今からまとめるのですが、取り組んで多くの示唆を得ているということだけここでお伝えしたいです。
大城氏の作品についても今後屈託のない批評がどんどん出てくるものと思います。それは好ましいことです。ただその前に氏の作品そのもの、小説、沖縄芝居、組踊(詩劇)に挑戦されてきた大城氏の情熱の在り処をしっかり見据える必要があるでしょうね。
しむちさんが最後にコメントされている琉球諸語の序列化に対する指摘ですが、台湾やベトナムなど少数言語の多い地域でも似たような問題が現象として起こっていると言えそうです。実はドミナントな言語の中で少数言語そのものの中でもさらに強固な磁場を持つように見える言語そのものも危機的だという事が言えそうです。
つまり人間国宝の照喜名朝一先生が危惧されているように組踊や古典音楽の基軸になる言語そのものへの深い危機感からくるものと考えています。
授業前に打ち込んでいて、8:30分には教壇に立つ必要があり、この辺で失礼します。
お二人のコメントに刺激を受けています。ありがとうございます。ご指摘の点、もっとじっくり対象化したいと考えています。よろしくお願いします。
ジェンダー批評やフェミニズムにも通じていることは、承知しておりますが、大事な議論の時に、権力や政治機構に対するディス―クールを云々することに、貴殿の見識の深さを感じながらも、その批評を自分自身に向けることのない危うさを感じます。
言われて初めて、自己対象化し、表題を変える、内容を追記する等の節操の無さは、是非反省していただきたいと思います。「誤解でした」で、済まされる単なるつぶやきとして、このブログを運営しているのであれば、表現をお考えになるべきです。ここで展開されには、難しい議論であれば、「政治的改竄」だの、個人名をあげて、不徹底な取材・調査で、「がっかり」だの、言わないほうがよろしいかと思いまう。
沖縄における演劇研究の第一人者として、貴殿の沖縄への愛情、そして探究心には、敬服しながらも、やはり、学術的品格は、相容れないと率直に感じました。思いやりや優しさで、学術に取り組むわけではないので、どうでもよいとすれば、それも良しとせざるをえませんが、素直に「人としてどうなんだろう?」「稲やゆかる程、あぶし枕ってなくていいの?」と思ってしまいます。ごめんなさい。
いつか、お会いする機会には、私のアイデンティティも示して、堂々と議論したくはありますが、お返事を頂戴しながら、かなり切ない思いになっており、頭脳も心理も通じ合うコードがありません。とは、言え健康に留意され、御活躍をお祈り申し上げます。
先生が「特権的」な位置におられることの認識が強固になりました。特権というと抵抗があるかもしれんせんが、普通のファン以上に恵まれているという意味です。沖縄の芸能の世界で一定の権威を認められている賞の選考委員でもいらっしゃることですし、特に若手の芸能家について言及する際にはより丁寧な態度で臨まれるよう、お願いします。
言語の序列化については、事例のご紹介ありがとうございました。私がうかがいたかったのは先生の立ち位置です。
古典芸能や沖縄芝居の継承・存続を訴えておられる先生としては、おっしゃるところの琉球語の継承・保存を他の琉球諸語より優先させる必要があるとお考えだということでよろしいでしょうか。一つの見識だと思います。
別のエントリですが、西銘氏への返信で
>余談ですが、このブログにコメントされる男性の方々のロゴスの展開の在りようにも興味をもっています。
とおっしゃっているのが興味深いです。
先生は女性で、西銘氏は男性(方々という書き方なので付け加えれば私も男性ですが)、ロゴス展開の性差はどこにありましょうか。機会があればご見解を伺いたく思います。
先生とのこのたびのやり取りは触発されるところが多かったです。ありがとうございました。
肝に銘じたいと思います。【思いやりと優しさ】も大切ですね。いつも淵なり境界の傍らにいるような無意識・意識の中にあってこの間批評活動をしてきたように思えます。対象に対する微妙な差異もあります。
学術的品格ですか?その定義は興味があります。何をもって品格とするのかーーー。
文章の垂れ流しですか?ブログ論になりますね。ブログって何でしょう?否定的なコメントを最近信頼できる先輩からもメールでいただいたのですが、実証的なことばと主観的なことば、言辞・言説の違いということなのでしょうか?
「ーーの批評を自分自身に向けない危うさも気になりました」とは?
自分に優しく他者に厳しくですか?わたしの存在そのものの立場は常に厳しいと感じています。おそらく「わっさ」さんや「しむち」さんの立ち位置は恵まれた社会の基軸にあるのではと思います。匿名で批評するという事は、すでに社会的にある位置づけの中にあり、立場上匿名であらねばならない、という事ですよね。
まぁ、その辺の政治・経済・社会的事情は考慮するとしても、このブログですが、批評するという立場は捨てたくないですね。
一方でブログの限界も感じています。こんなブログをやめて真剣に一冊の本でもまとめる事に集中する方がいいのではとーーー。
でもまだ続けるつもりです。お二人のアイデンティティーは半ば推測できても、IPを特定するなどの興味はありません。
いたらない点をご指摘してくださった事は良かったと思います。それにしても嘉数道彦さんはみなさんに愛されているのですね。私もこのブログでかなり評価したのですが、でもまだ彼の写真と経歴の入ったコンベンション・ビューローの【伝統組踊】のサイトは、そのままなのでしょうか?是非直接みなさま方も嘉数さんにその文章の事をお聞きしてみてください!
軽率な行為と厳しいですが、ブログはあくまで個人のメディアです。もちろん訂正もします。写真もUPしますが、写真の件では、HPに削除可能です、と言及しています。
このブログがネット・グラスルーツとしてそれなりの役割を果たすことができたら幸いです!