以前朝敏生誕300年記念事業の中で、多良間村で「手水の縁」の上演が企画され、同行した。朝敏ゆかりの多良間の子孫、系譜についての講演もあり、良かった。
久しぶりの「偲ぶ会」への参加である。小高い丘の上で古典十七、八節の演唱があり、「手水の縁」の音楽についての解説がなされた。東事務局長ががんばっておられる。以前、某舞踊家の女性と企画していたことがあり、彼女との約束がまだ実現していないことが気になっていた。平敷屋は勝連半島の先にある。小高い丘の上、平敷屋タキノー(公園)から海が直下に見える。
90歳の女性とご一緒の方は神女(ユタ)のようで、タキノーをずっと管理してきた人の霊が降りてきたようで、その家族のいきさつやお墓についてお話していた。朝敏についてスケッチを残していると東さんは話した。この偲ぶ集いにはいきなりことばが降りてきたので、気になって参加されたようだ。ローゼル川田さんのスケッチが展示されていた。「こんな筑登之親雲上(ちくどぅんぺーちん)の位のような扮装ではないよ」と彼女は不満そうで、実際描いた絵は品位がいいのだとのことだった。是非その絵画(描写)をみたいと思う。
平敷屋朝敏が永遠に輝くのは、残された作品と悲劇のヒーローゆえである。「手水の縁」は伝統組踊唯一のラブストーリー。一作品のもつ影響の大きさが近代以降の歌劇に影響を与えていることから如実だが、この作品そのものが「自由恋愛」を称えているゆえに上演禁止の憂き目にあっている。男女の自由恋愛は社会秩序の棘になるという考えが近世にあった一方で、近代はこの間の社会の桎梏を溶いていく課程でもあった。大きな潮流は日本への同化である。
平敷屋の地名を自らの姓にした朝敏である。村に滞在した期間は短くても心に深くしみこむ所以があったのだと推測できる。