10月28日に3,4紙面を網羅して特集を組んだ沖縄の新聞社は、今朝、社説で作家大城立裕を讃え、悼んだ!両紙の社説をブログに掲載するが、その比較と批評をしたい。
社説は原稿用紙2枚から2枚半ほどで短い。その中に1人の作家の95年の生涯を多くの作品や政治的スタンスも含めてそのエッセンスをまとめている。どこに視点を置くかによって微妙な違いがあるのは納得がいく。しかし、見出しは類似する。沖縄タイムスは「文化的自立に希望託し」であり琉球新報は「文化の力で政治に対峙」である。
タイムスの社説の「文化的自立」はヤマトの政治的な壁が厚いことへの抵抗手段として捉えられている。一方新報は近代以降の沖縄を日本との関係で同化と異化の振り子のゆれとして捉え、同化が劣等感からくるとのニュアンスで、対ヤマトの歴史の中で独自のアイデンティティを求めるのが異化としている。ゆえに辺野古の新基地建設への反対運動を作家大城は「異化の爆発」と表現したとまとめている。日本による沖縄への構造的差別というフレーズは何度でも紙面や書籍の中に登場する。
1972年の復帰の年に『同化と異化のはざまで』のエッセイ集を発行している作家大城立裕のスタンスは変わらない。小説『琉球処分」から『焼け跡の高校教師』に至るまで、沖縄の歴史と文化を見据え、絶えず実存的に沖縄の現在を描いてきたのだ。
現在に至るまで日本や日本人への同化と異化は揺れ動いている。日本への復帰の是非が問われ続けるように~。巨大な米軍基地がドカントと居座り続ける戦後75年に至る現実そのものが大きな槍となってこの島全体を突き刺しているゆえではないのか。
面白い事にタイムスの社説で同化志向からどのように抜け出していくか、それが生涯のテーマだったと記述している。しかし対抗する意識として異化の言葉は登場しない。一方で新報は同化と異化を強調している。
タイムスの『政治的な立ち位置が分かりにくい」との批判があったとの指摘は興味深いし、社会主義リアリズムの傾向があったと評される「琉大文学」への厳しい眼差しがあったとの指摘だが、そのスタンスに共感を寄せている詩人も、研究者もいるのは事実だ。
社説の終わりに「普天間よ」「辺野古遠望」の小説を紹介し、この問題の行く末を深く案じながらも結末を見ることなく逝ってしまったという締めは違和感を持った。3年前だっただろうか。お正月に挨拶でご自宅に伺った際、大城先生は確か「悲観的にならざるえを得ない」と話しておられた。物理的というより観念、思考的にと付け加えていたことに、深い憂慮を感じた。
さて多くの著作が出版されている。タイムスは小説には言及しているが、現代沖縄演劇(芝居)や新作組踊には言及していない。近代以降の琉球・沖縄の歴史は歴史小説の三部作にまとめられているが、琉球王府時代をテーマにしたのが、実は20作以上書かれた新作組踊の中に網羅されている。しかも沖縄演劇作品の中に、小説とも異なるユーモアやペーソスと共に、うちなーぐちとその表象へのこだわりがある事がわかる。
以前「首里城明け渡しと世替りや世替りや」の論文をまとめる際に、喜劇の諧謔さ、ユーモア、風刺に驚いた。そして庶民への眼差しの暖かさが描かれている。新作組踊はいわば詩劇で、結晶化されている言葉、テーマ、そして創造のエネルギーはまさにかつての玉城朝薫に課された小さな琉球王府の誇りとアイデンティティーに根ざしたものである。
小説にとどまらず、演劇作品(詩劇も含め)、批評、琉歌集とあらゆる角度から歴史の推移と現在に至る時空を網羅した作品を完成させたその熱情は他に類がない。ところでアメリカで英語で朗読劇として上演された「カクテルパーティ」だが、英語の翻訳もメールで送っていただき読ませていただいた。またハワイで上演されたDVDも手元にある。あの一部改作された作品は木下順二の作品ににて、ダイアローグ形式が主でアクションが少ない。ゆえに朗読劇にふさわしい作品に見えた。テーマは地位協定を扱い、核の問題も含め、絶対倫理という究極の理念が迫ってくる作品だ。
作家大城立裕が生涯現役で結晶化した作品の数々はまさに現在の沖縄へ、そして世界へのメッセージであり続ける。
ことばの問題なんですね。
社説は原稿用紙2枚から2枚半ほどで短い。その中に1人の作家の95年の生涯を多くの作品や政治的スタンスも含めてそのエッセンスをまとめている。どこに視点を置くかによって微妙な違いがあるのは納得がいく。しかし、見出しは類似する。沖縄タイムスは「文化的自立に希望託し」であり琉球新報は「文化の力で政治に対峙」である。
タイムスの社説の「文化的自立」はヤマトの政治的な壁が厚いことへの抵抗手段として捉えられている。一方新報は近代以降の沖縄を日本との関係で同化と異化の振り子のゆれとして捉え、同化が劣等感からくるとのニュアンスで、対ヤマトの歴史の中で独自のアイデンティティを求めるのが異化としている。ゆえに辺野古の新基地建設への反対運動を作家大城は「異化の爆発」と表現したとまとめている。日本による沖縄への構造的差別というフレーズは何度でも紙面や書籍の中に登場する。
1972年の復帰の年に『同化と異化のはざまで』のエッセイ集を発行している作家大城立裕のスタンスは変わらない。小説『琉球処分」から『焼け跡の高校教師』に至るまで、沖縄の歴史と文化を見据え、絶えず実存的に沖縄の現在を描いてきたのだ。
現在に至るまで日本や日本人への同化と異化は揺れ動いている。日本への復帰の是非が問われ続けるように~。巨大な米軍基地がドカントと居座り続ける戦後75年に至る現実そのものが大きな槍となってこの島全体を突き刺しているゆえではないのか。
面白い事にタイムスの社説で同化志向からどのように抜け出していくか、それが生涯のテーマだったと記述している。しかし対抗する意識として異化の言葉は登場しない。一方で新報は同化と異化を強調している。
タイムスの『政治的な立ち位置が分かりにくい」との批判があったとの指摘は興味深いし、社会主義リアリズムの傾向があったと評される「琉大文学」への厳しい眼差しがあったとの指摘だが、そのスタンスに共感を寄せている詩人も、研究者もいるのは事実だ。
社説の終わりに「普天間よ」「辺野古遠望」の小説を紹介し、この問題の行く末を深く案じながらも結末を見ることなく逝ってしまったという締めは違和感を持った。3年前だっただろうか。お正月に挨拶でご自宅に伺った際、大城先生は確か「悲観的にならざるえを得ない」と話しておられた。物理的というより観念、思考的にと付け加えていたことに、深い憂慮を感じた。
さて多くの著作が出版されている。タイムスは小説には言及しているが、現代沖縄演劇(芝居)や新作組踊には言及していない。近代以降の琉球・沖縄の歴史は歴史小説の三部作にまとめられているが、琉球王府時代をテーマにしたのが、実は20作以上書かれた新作組踊の中に網羅されている。しかも沖縄演劇作品の中に、小説とも異なるユーモアやペーソスと共に、うちなーぐちとその表象へのこだわりがある事がわかる。
以前「首里城明け渡しと世替りや世替りや」の論文をまとめる際に、喜劇の諧謔さ、ユーモア、風刺に驚いた。そして庶民への眼差しの暖かさが描かれている。新作組踊はいわば詩劇で、結晶化されている言葉、テーマ、そして創造のエネルギーはまさにかつての玉城朝薫に課された小さな琉球王府の誇りとアイデンティティーに根ざしたものである。
小説にとどまらず、演劇作品(詩劇も含め)、批評、琉歌集とあらゆる角度から歴史の推移と現在に至る時空を網羅した作品を完成させたその熱情は他に類がない。ところでアメリカで英語で朗読劇として上演された「カクテルパーティ」だが、英語の翻訳もメールで送っていただき読ませていただいた。またハワイで上演されたDVDも手元にある。あの一部改作された作品は木下順二の作品ににて、ダイアローグ形式が主でアクションが少ない。ゆえに朗読劇にふさわしい作品に見えた。テーマは地位協定を扱い、核の問題も含め、絶対倫理という究極の理念が迫ってくる作品だ。
作家大城立裕が生涯現役で結晶化した作品の数々はまさに現在の沖縄へ、そして世界へのメッセージであり続ける。
ことばの問題なんですね。