(琉球新報12月20日)
(つぶやき)
兼島拓也さんは注目されているので、ネットでも批評が読める。脚本や舞台の詳細については研究の領域になる。批評は作品のエキスを掬いとる事になるが、そこに抜けているところに関心は起こる。
田吹さんはこの記事(批評)でミスを犯しているのは、神谷武史さんを「組踊」保持者としている点が大きいが、神谷さんが保持者候補の有望な実演家だという事は確かだ。しかし現時点では保持者ではない。
さらに森川の子は劇の冒頭、この写真の姿で斜めに右下手から左上手へケシの花籠を持って横切っていく。それに対する言及がない。その写真を見ると、いかにこの現代劇が「毒のある作品」かと、観た舞台が思い出されてくるのだが~。アイロニーとシニカルな遊びが、強烈なのかもしれないと思い出してしまう。
「花売の縁」の花にも、当時花を買うという事が実際あったのか、もまだ疑問で、このような花売りが実際存在したのか、「大川敵討」(忠孝婦人)に登場する村原扮する小物売りは推測できるが、そこに花を誰が必要としていたのか、塩屋が港町として栄えていたと想定してもその界隈で花を売る商いがあったことが、あいまいに感じられる。
花や盆栽をめでることはありえたかもしれないが、花を栽培して売るという商いについて、史実を調べたい。単に能の芦刈の翻案過程で、花売りにしたのかも含め~。矢野輝雄さんの芦刈と花売の縁の比較論文がネットで読めるので、ここに紹介しておきたい。
作品は表象、作り物ゆえに、嘘があっても不思議ではないので、多くの仇討ち組踊も、実際にはなかった可能性が高い。
備忘録として記事をUP。
★論文:「芦刈」と「花売の縁」 矢野, 輝雄
https://hosei.ecats-library.jp/da/repository/00015711/KJ00004202191.pdf
https://hosei.ecats-library.jp/da/repository/00015711/KJ00004202191.pdf
しかし兼島さんの脚本では森川の子はアヘンの元となるケシを栽培していた設定で、それがペリーとの出会いで大出世する近未来だから、ファンタジーか~。風刺が込められているけれど、コンタクトゾーンでステップ・ストーンの琉球・沖縄のイメージが大きい。
脚本を読み動画を観て、検証してみたい。兼島さんの才覚と欠点が見えてくるかな~?田吹さんが「情報のランダムさや突然の切断がSNS上の世界のようだった」という指摘は、いいね。仮想現実と歴史のハッキングが現実のリアルに突き刺さるような~。面白いけれど、昏くてシビアでもある。