御冠船様式が追求されている昨今である。国立劇場おきなわの張り出し舞台は屋根までつき四間四方である。橋掛かりが立体感のある雰囲気を醸しているが、北表、南表と出入りが幕を開けての出入りで無作法にも見えたりするが、大胆な動きが舞台に縛られて見えなくなった。橋掛かりからの出入りの立体感だけは興趣がある。王府時代の組踊のシンプルさが伝わってくる。酒座の場での余興だから、演技性に大衆の視線を浴びる厳しさがどれほどだったかわからない。大衆の視線にさらされ近代演劇の面白さを追求したのは明治以降から復帰までで、2004年の国立劇場誕生から復元なり修復がなされている。
つまり二度目の大転換期で自ら古典化、その様式を練りあげているというわけである。時代の弁証法的推移とも言えるが面白い。しかし古典化を求めるなら妥協しないで徹底しで古典様式を新たに創造したらいいね。日本のお能のような形態と歌舞伎的なモノの多様性のある合体ということにもなるのだろうが、沖縄芝居的な要素もつらねとかで導入したらいいね。歌舞もまた女踊の抽象性を追求したらいい。それはもう古典の再現ではなく古典の創造だね。現代の視点から求める形(美)の追求ということになる。あくまで現代人の感性に沿った古典化の再現だね!
それもいいと思うが、わたしは身体は劇場にそって表現すると考えるから、短歌や俳句の形にことばが思念や感性が研ぎ澄まされていくように、規範的な形(枠)の中でどう身体が研ぎ澄まされていくか、唱えがどう澄んでいくか、関心をもっている。ただ物語のテーマは文芸史の弁証法を経ての現代だから新しい!演劇史の長い時間を経ての現代である。歌劇や史劇もまた網羅して古典化だと考えている。
幸喜良秀氏を切って、演出の素顔が見えないがそれは意図的だろう。それはそれでいいと思う。最近の嘉数道彦など、四間四方の中にうまく大城氏の新作組踊を入れてしまっている。方向性は見えてきたのだろう。しかし幸喜氏の現代劇のような大胆な現代劇=総合オペラの大胆さが好きだなー。その方向性も捨ててほしくない。
つまり2つの演出が常に可能なのである。閉じられた空間と開かれた空間(舞台)でいかようにも同じ作品は創造できるという柔軟性である。その柔軟性を捨てたらおしまいだなー。現に国立劇場おきなわの張り出し舞台は《偽物》である。それが古典様式だなんて言わないでほしい。専門家の折衷主義や嘘・ペテンは醜い!
古典の純の姿を追求するなら現・国立劇場おきなわは純ではない。多良間島の形態でも模索したどうだろう。三間四方の舞台を三方から見れる伸びやかな室内劇場空間を作らない限り納得できない。それなら明治以降からの歌舞伎を取り入れた頃の額縁舞台を大胆にやったらいいね。幸喜良秀演出の新作組踊=現代沖縄総合芸術が、一番この劇場(国立劇場おきなわ)に相応しいのだから!皮肉だけど!
しかし額縁舞台でも大衆演劇としての組踊や沖縄芝居の身の丈にもこの劇場は合わないのである。もっとも相応しいのは幸喜良秀さんが演出する新作組踊の大胆さに相応しいのである!舞台に呼応できる観衆と舞台が一体のなりえる劇場がいいね!額縁の中の眺める身体芸術はどうもで、笑い、いっしょにため息をつき考え弾ける舞台がいいね!
県立郷土劇場、沖縄パブリックシアターは建設されるべきである!戦前戦後の沖縄に実際あった劇場を検証して真に民衆の感性に近い、舞台と一体になれる劇場を建設すべきである!舞台と観衆の身の丈、呼吸・感性にマッチした劇場は必要だね!専門家のみなさま、行政のみなさま!事大主義的折衷はだめですよね!精神まで事大主義のゴリゴリはもういいですよ!近代以降の根から生やさなければ!