(マレーシア、中華料理店内の聖なる空間)
パソコンに向いてキーボードを打っていると、左手の甲がチクリと痛む。よく見ると小さな小さな蟻が噛んでいる。指ではじく。こうして生きているもの達を何気なく殺して生きているのだ。蚊もそうだ。蚊帳を利用するようになって雌蚊の鳴き声に悩まされなくなったが、無数の生き物たちに取り囲まれて生きている。
無数の住み分けや境界がある。自然淘汰の進化は果てしなく続く。もう限界だよとささやく声も聞こえる。それでも今日も忙しい、けたましい蝉たちの合奏が聞こえる。身体全体を振り絞って合奏する。合唱なのか、鳴き続ける。声を限りに鳴く、それは愛の叫びだと思えるのだが、おれはここにいるよ、ここだよ、と愛を叫び交尾して果てる。自然のサイクルでインプットされたDNAを生きているということになるのだろうか?post・humanismの考えだと、すでにして言葉を持つ人間がこの地球の生態系の頂点に立つという認識が崩れ始めている。人口頭脳や遺伝子工学、考古学や類人猿との比較検証など、細胞レヴェルであらゆる生態系、その中に住む種や生き物との関連性が見取り図のように表にだされると、人類史の傲慢さが、はじき出されてくる。その人類の殺し合いの残酷さも含め、この地球に生きるということの意味性が、実は蝉と同じで単に種のレヴェルのインプットされた仕組みを生き生かされ死ぬ、そして無限のサイクルを余儀なくされるDNAのたくらみがあるのだと、思ったりする。
(マカオでは巨大な女神像があったが、中華料理店内の女神像)
(イギリスの植民地跡に建つ教会)