昨今、注目されているPTSDの心因が戦争体験者にもー。イラク戦争のPTSDでホームレスになったり、自殺者の数が多いというアメリカ兵の記事をたまに新聞で見かけるが、68年前の戦場の悪夢ゆえにずっと苦しみ続ける人々がいること、それは想像はできても、人間がいかに記憶にまた呪縛されそれによって生きいかされる存在かということを再認識させる。
夫婦は仲良しがいい。年を経ても仲良し夫婦はうらやましいが、妻にやさしくなかった夫はもはや顧みられることはなく、夫にやさしくなかった妻もまた心の底から信頼しあえない。離婚をして本来の自分に戻りたいと思いつつ偽善的な形の家族を生きるのも、そこから漏れ出すもの、小さなPTSDも実は大きいということがわかる。多かれ少なかれの家族の関係性の破たんもありえる。利益共同体としての婚姻だと、上野千鶴子さんはばさりといい切るがその要素もある結婚という形態である。同じ職能集団や階層が同じ利益集団をなして婚姻形態(関係)も結ばれピラミッド社会の大小が見えたり見えなかったりする。そこに腐臭を感じても、美しい愛なり恋とはまた別の人間のサバイバル価値(伝統という名の慣習)もまかり通っているのらしい。
だからいつでも「ほんとうのことば」がほしいと思うのかもしれない。本来の自分に戻りたがっているわたしがいる。本来の自分の自然体、感性の発露を求め続けている。それは誰でもがもっている隙間なり空洞を埋める終わりのない旅のようなものだろうか?死ぬ間際まで人は変れると、今キジバトは盛んに鳴いている。クーククル、クーククル!ほんとうのことば、ほんとうに語りえることばとは何だろう?
痛みを存在の悲哀を喜びを表現する(表出する)ことばをすべて受け止めあえる関係性はありえるのだろうか?ほんとうのことば、痛み・悲しみ、存在の罪の共有、ことばに棘がない対話が限りなく続く間合いへー!
一人の人間の存在の宇宙の深さがある。弱さがある。奥深い魂の痛みがある。それを受け止めることのむずかしさがある。PTSDで苦しむ人間の痛みの底の底を共に見据えることはたいへんだろうと想像するだけだ。愛とはそうした痛みの底を苦しみの底を理解しあえることなのだろうけれど、親の子にに対する深い無限の愛とはことなる男女の愛の深淵の孤独は、いつも断崖と共にあるような気がする。理解・共感から見捨てられた孤島に住んでいる人々は実は多いのかもしれない?親子の愛がしかし愛憎の修羅地獄にもなりえるね。人間の心なり魂の底なり淵は、はかりしれないものが常に漂っているのは確かなのだね。愛とは祈りそのものだろうか?願望のようなもの、手に入らない見えない宝石の塊のようなものー。自己犠牲をいとわない愛がある。他者を犠牲にする愛もある。んん、複雑な関係性の綾の中に立ち尽くす日々、心やすかれと自らに祈る日々かな。