(琉球新報10月6日より転載)
なかざわしんいちさんは、オウム真理教事件との関連で一時表に浮上していた宗教哲学者のイメージで捉えていたのですが、最新の著書は興味深いですね。瞑想や神秘主義とも関係しているのですね。『ホモデスウス』の著者ユヴァル・ノア・ハラリと比較したいですね。
以下はネットのフリー百科事典ウィキピディアより転載(備忘録)
中沢 新一(なかざわ しんいち、1950年5月28日 - )は、日本の宗教史学者。元中央大学総合政策学部教授。明治大学特任教授/野生の科学研究所所長[1]。多摩美術大学美術学部芸術学科客員教授。
クロード・レヴィ=ストロース、フィリップ・デスコーラ、ジャック・ラカン、ジル・ドゥルーズ等の影響を受けた現代人類学と、南方熊楠、折口信夫、田邊元、網野善彦等による日本列島の民俗学・思想・歴史研究、さらに自身の長期的な修行体験に基づくチベット仏教の思想研究などを総合した独自の学問「対称性人類学」を提唱する。
2011年の東日本大震災以降は、エネルギー問題、現代における政治参加の問題についても思考しており、実践的な活動として2013年には「グリーンアクティブ」を設立した。[2]
略歴
山梨県山梨市出身。
父・厚に連れられ、しばしば山梨県内の遺跡や民俗信仰の痕跡に調査に出かけていたという。早稲田大学文学部に入学するも、翌年には東京大学教養学部理科二類に入学し、生物学者を目指す。 植島啓司に誘われて宗教学者の柳川啓一の講義を聴講し、それがきっかけで宗教学に転じて文学部宗教史学科に進む[3]。
柳川啓一ゼミ
東京大学文学部宗教史学科で柳川啓一のゼミに所属。ゼミでの柳川は、宗教の中心にあるのは、人は儀礼において「聖なるもの」を体験することで子どもから脱して大人になることができるという「イニシエーション」であるとしており、宗教学者は本を読むだけでなく、イニシエーションを直接体験しなければならないと主張、柳川ゼミでは、聖なるものを体験させてくれる宗教を見つけて「潜り込み」調査をする、自ら信者になって体験するということが行われていた[4]。
ネパールへ
中沢はその対象にチベット密教を選び、大学院人文科学研究科博士課程在籍中の1979年(昭和54年)、チベット密教の修行のためにネパールへ赴いた。チベット学者の石濱裕美子によると、中沢がチベット密教に興味を持ったきっかけは、ドイツ人アナガーリカ・ゴーヴィンダまたはラマ・ゴーヴィンダ、本名エルンスト・ロタル・ホフマン(1898年 – 1985年)[注釈 1]の自伝的著作『白雲の彼方に』である[5]。カトマンズ盆地のボダナートに住んでいた亡命チベット人ラマであるケツン・サンポ・リンポチェ(1920年-2009年)に師事し、亡命ニンマ派の初代管長ドゥジョム・リンポチェやその跡を継いだディンゴ・ケンツェー・リンポチェにも会った。中沢が師と仰ぐケツン・サンポ(転生活仏ではないが後にケツン・サンポ・リンポチェと尊称される)は、ゲルク派の僧院で学問を修めたことのあるニンマ派のラマで、還俗して在家密教行者(ンガッパ)となった人物である。1959年にインドに亡命し、翌年ダライ・ラマ14世の要請でドゥジョム・リンポチェの代理として日本に派遣され[6]、10年間、東洋文庫の研究員を務めながら東京大学などでも教鞭を執っていた[7]。チベット学者の山口瑞鳳は彼は東洋文庫で自分の助手をしており、日本語が堪能であったと述べている[8]。以後、ネパール、インド、シッキム、ブータン等で、ゾクチェンと呼ばれるチベット思想や瞑想修行法を学ぶ[9]。「仏教の出てくる根源」への関心から行ったこの修行の影響が、後の中沢の思想を大きく特徴づけるものとなる[10]。1981年、チベット難民の住む土地での寺院建立に向けて、ケツン・サンポとの共著名義で『虹の階梯 - チベット密教の瞑想修行』を出版する[11]。
体外離脱体験
チベット密教の修業を始めて7日目の晩、いつものようにヘックという掛け声とともに心滴を頭頂から抜き去った瞬間に体外離脱が起きたと主張する。中沢はこの時、自分が身体の外にいて自分自身の肉体を見下ろしていることに気付いた。中沢は師であるラマに嬉々としてこの様子を話したが、ラマは冷淡に体外離脱体験の価値を否定するとともに、瞑想によって体験した意識の状態の絶対化を戒めた。このことにより、中沢は一気に不安な状態へ追い込まれる[12]。
ネパール帰国後
1982年にネパールより帰国。博士課程を満期退学し、1983年4月から1993年まで山口昌男のもとで東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所助手を務める。1983年、『チベットのモーツァルト』(せりか書房)を発表。同書は、同じく現代思想的な内容を扱った浅田彰の『構造と力』とともに同年の話題書となり、2冊は人文書としては異例の売り上げを果たした。世界的な人類学の再編成が行われた1970年代にはみずからの研究分野を文化人類学の一領域としての宗教人類学に限定したが、『チベットのモーツァルト』以後の領域横断的な活動によって、中沢は一部で新しいアカデミズムのスタイルを体現する知識人として受け入れられ、人気を博した。中沢・浅田のふたりは、前後にデビューした他の若手研究者とともに「ニュー・アカデミズムの旗手」に祭り上げられる。しかし、本人は「当時ニュー・アカデミズムと呼ばれた一種の言語構築主義に対する反発」[13]から、ダーシー・トムソンの生物学、ゲーテの自然論、デューラーの人相学等から影響を受けたというレヴィ=ストロースの神話研究や、人里離れた熊野の森の中で華厳経の研究を行った南方熊楠の思想に惹き付けられ、その成果として『雪片曲線論』(青土社)という論集が書かれたという。
1987年から1988年に東京大学で中沢を教官として受け入れるか否かを巡り騒動が起きる(東大駒場騒動)。1989年から1991年は国際日本文化研究センター研究員を務める。1992年(平成4年)、南方熊楠についての包括的な研究『森のバロック』(せりか書房)を発表。最新の社会学、カルチュラル・スタディーズなど現代思想の表舞台には背を向け、『東方的』(1991年)、『森のバロック』、『はじまりのレーニン』(1994年)など、反時代的な人物や思想を取り上げる反時代的な書物を書き上げることに熱中したという[14]。
1993年に『チベット死者の書』として知られるニンマ派の『バルド・トェ・ドル』やそれに関連するゾクチェンの思想について述べた『三万年の死の教え - チベット『死者の書』の世界』を発表。NHKで放映された『NHKスペシャル チベット死者の書』[注釈 2]の脚本も担当し、評判を呼んだ。著者によれば、本書は『バルド・トェ・ドル』の仏教としての正統性を問う以前に、その思想を人類の精神史という普遍的な文脈において論じようとしたものである[16](チベット学者の山口瑞鳳は、埋蔵経典である『バルド・トェ・ドル』は偽経であると批判している[17])。
1993年には中央大学に新設された総合政策学部に教授として就任。同じく1997年に新設された中央大学大学院総合政策研究科教授を兼任する(2006年3月まで。2006年度は同客員教授)。1998年にはチベット仏教ニンマ派の伝承するゾクチェン思想の翻訳・伝承の採集など基礎研究活動を目的とするゾクチェン研究所を設立[18]。2006年4月、中央大学から多摩美術大学に移籍し、「21世紀の人間の学を、芸術を機軸とし人類学を基盤として再構築するため」[19]の新たな研究拠点として多摩美術大学芸術人類学研究所 (IAA) を開設。同大学美術学部芸術学科教授を兼務しつつ、初代所長として「芸術の発生学」「神話の生命力」「野外をゆく詩学」「ユーロアジアをつらぬく美の文明史」「生命と脳」「平和学の構築」という6部門の研究プロジェクトを推進した[20]。こうした研究成果は、2011年に第二代所長に就任した鶴岡真弓に引き継がれる。また、2006年6月より糸井重里の主催する「ほぼ日刊イトイ新聞」で「芸術人類学研究所 青山分校![21]と題する全7回の講義を実施。2011年、日本文明の潜在能力を目覚めさせ21世紀に必要とされる「新しい学」の創出をめざす「明治大学 野生の科学研究所」 (ISS) が設立され、その所長に就任。2013年(平成25年)より河合隼雄学芸賞選考委員[22]を務める。
【…レンマ的構造をした「数」は相即相入しあうことで、たえまなく新しい状態を生み出す。この様子を表現するためには、まずレンマ的「数」を表現できる構造を確定し、ついで「数」同士の作用しあう様を作用素の「積product」として表現できなければならない。…】を、【…複素数の構造…】に眺望して観たい。
【…「直交補構造(orthocomplemental structure)]」…]的な捉え方で十進法の基における西洋数学の成果をロゴス的知性とし、レンマ的知性で[1][0」に作用素を加味して捉えて観る。
すると直交座標の横軸と縦軸を縁起的に眺望できそうだ・・・
横軸は、[自然比矩形]に組み込まれたeの肩のnが軸のキャリブレーションになる。(n軸(離散的には自然数))
【…「エネルギー恒存」…】が[創発直方体](数の核ジャーゴン)にみとれる。
そして、[自然比矩形]のレンマ的知性を通して二次元の1=1×1が、【…相即相入(「メタファー」・「メトニュー」)…】に獲得すると観たい。したがって、完備性(連続を獲得(実数))を獲得すると観たい。
この運動は、直交補((極微化値)×(極大化値))によるの横軸の回収による正方形の一辺の[1]と観る。
縦軸は、[自然比矩形]の回転の操作によるキャリブレーションと観る。
したがって、π軸と観る。
直交座標と極座標の【…相即相入…】は、【…真理の基準・・・「群論」…】的な眺望を【…ニュメロイド…】として[√]に潜像を探る。ロゴス的知性の点線面を、〇への△と◇の内接に眺望すると、対称性・双対性・離散性・連続性などなどが浮かび上がってくる。
たとえば、[離散的有理数の組み合わせによる多変数創発関数]は、[存在量化確度方程式]と[存在量化創発摂動方程式]の帰結の係数の関係 α+β=1 α×β=1 を 2次方程式の係数に適合させると、
x²-x+1=0 になる。
この根は、
(1+√3i)/2 (1-√3i)/2 である。
これと、x3-1=0 の解
-(1+√3i)/2 -(1-√3i)/2 1 である。
これに、 -1 を加えた6点は、複素平面の円環に6個の正三角形(△)の頂点になり、
△と〇の点線面の【群】化を呈示していよう。というのは、辺=半径 点は、中心と円周を共有する。(内接としては正六角形)
その【ニュメロイド】は、√6に凝縮され、直交座標の縦(π)軸と極座標との繋がりのバーゼル問題の風景になっていよう・・・
〇と△の中心を共有しない、△の図心(臍)での内接は、√3に凝縮される。この△の複素数根を繋ぐ直線と x²-x+1=0 の根を繋ぐ直線は、レンマ的知性からの群論的な平行線の傍証と観たい。(パリティ性)
〇と◇では、√2に凝縮される。
レンマ的知性による直交補は、[1][i][‐1][-i]が、直交座標の潜像と観たい。
自然数には、レンマ的知性で捉えると4次元まで閉じた本性を、一次元数(実数直線)とし時間軸を溶かしこんでいるように観える。
但し、人の一生は、極座標の円環の中だけのモノかもしれない・・・
五角形の内接は、√5に凝縮され、入れ子構造や正方形(2次元数)の眺望にもなっている。