(夕暮れ時、車でむかう那覇の街)
昨日、友人が見舞って長いこと話が弾んだ。「才能がないので才能を活かす方法を見つけるのが才能だ」と貼紙をしていたことを思い出す。それは自分のことばではなかった。人はある衝動のようなものに突き動かされて生きている。それは自らのルーツであり、アイデンティティのようなものなのかもしれない。ある方向に向かわざるを得ないエネルギーの在り処があるようだ。友人の息子、若者が向かっている先は自分探しであり、世界の究明であるに違いない。美術史は思想史に他ならない。
孤独な人間の生き死にの姿がある。死して永遠に生きる人々がいる。無名の多くの屍があり、集団的無意識の象徴のような人々がいる。生き生かされているのだ。20代初期、大学の恩師に送った手紙に存在の原罪について書いた覚えがある。存在そのものの価値、意味付けと罪責観念について考えていた。別にキリスト教徒ではない。
ヨブ記だが、聖書をめくってみた。以前読んだところに赤い線がひかれている。改めて音読してみよう。
「女から生まれたものは、どうして正しくありえよう」
「わが霊は破れ、わが日は尽き、墓はわたしを待っている」
「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう」
ヨブは140年生き長らえた。
脳外科医の奥さんで詩人のFさんから送られてきた同人誌の中に死を見届ける光景が描かれている。
*******
熱い熱い、足は冷たい。
熱い熱い身体
熱い身体がことばを放つ時!