
陽ざし降り降る赤土の島に固執した人生だったのですね。300年近く人頭税に苦しめられた島空間から世界をこの地球惑星を、宇宙を見据えたのですね。
辞世の句に向かったのが2019年の9月末でした。
「時空の中洲で」の出版に向けて最期のエネルギーを振り絞っていました。抗がん剤投与を続けながら、壮絶な闘いだったのだと、今あらためて思い入ります。
20日に、わたし自身の繰り上げの、慌ただしい退院の後、赤十字病院に向かうと酸素マスクを着けながら呼吸はまだ穏やかで意識があり、声にも反応がありました。「後の事は何も心配ないからね」と話すと眼に反応がありました。息子とわたしの声には眼を開いたのです。
新報社の文化部長・高江洲洋子様の声、お話にも頷いていました。
20日午後7時47分永眠です。安らかに徐々に息を引き取りました。それから通夜、告別式、初七日と目まぐるしく時が過ぎていきました。
ブログを見ることもなく更新も出来ないこの間、やっと今、クリニックから退院後の検診の前に打ち込んでいます。
友人や詩人仲間の皆さま、心から信頼していた名桜大学学長の山里勝己さまや作家の大城貞俊さまをはじめ、参列して下さった皆様に深謝です。
弔電を送って下さった屋部公子さま、幸喜良秀さま、名嘉睦稔さま他10人ほどの皆様、告別式の翌日にわざわざ香典を送って下さった川満信一さま、大嶺可代さま、葉書で弔意の思いを送って下さった大城立裕さま、ご家族で参列して下さった上里和美さま、皆様のご温情に深く感謝しております。
詳細は後程この間の闘病を含めまとめたいと考えております。
ご参列して下さった皆様に深謝いたしております。
有り難うございました。
琉球新報社会長、社長、そして編集局長、文化部長、記者の皆様の御厚情、ご高配に、格別な思いを深めております。有り難うございました。