志情(しなさき)の海へ

かなたとこなた、どこにいてもつながりあう21世紀!世界は劇場、この島も心も劇場!貴方も私も劇場の主人公!

家が題名(主人公?)の映画Howards endを観た。そう言えば家の断捨離は終わらないままだ~。

2021-04-29 02:01:30 | 映画
空虚感に包まれる日々。満たしているのは菜園でのカタツムリや青虫たちとの葛藤と家の中の中心になったミーちゃん(やがてニャンコ先生に?)。
確かに英国の家には風情がある。この映画の主人公のような家屋はロンドンから地方へ行けばすぐ目に入ってくる。

空虚さは、この世界の空気ゆえかもしれない。真実の在り処(?)がもはや従来の教科書的な既知やメインメディアの情報をはるかに超えてきた現在故か、事実や真実が幾層にもまたがっていて、真実は事実は一つではないゆえか。春の忙しさがじっくり身にしみてきたが、一方で空っぽ感が押し寄せる。時代の空気の前に、『嘘』が心をめいらせているのも事実。

信頼していた知人・友人の嘘が、心をなえさせるものがある。『嘘』が前向きな姿勢を脱線させる。虚から抜け出すには嘘の裏を、嘘の根拠を見据える必要があるが、一旦懐疑心が起こると相手の全人格が空々しく感じられるのも事実。まだ子猫のミーちゃんはよく寝ているが、よく観察している。その眼が何をどう見据えているのか、不思議な存在。よく対象を見据える眼が問われているようだ。とここまでは前置きで、映画の感想でも~。映画は小説から映画になった作品。不思議な力がE.M.Fosterの作品にあることは発見だった。

https://dayslikemosaic.hateblo.jp/entry/2016/06/13/050000 ←いい解説です。

1992年の映像だから古い。しかし1900年代初期のイギリスが舞台で、古いというイメージはない。当時の階層社会英国が描かれている。Upper Middle classの二組の英国人家族と労働者階層の男性とその妻の物語が折り重なっている。中軸にあるのは、ハワードエンドと呼ばれるカントリー・ハウス(別邸)である。階層の垣根が流動化している英国でもある。貴族など上層階層ではなく、実業家や不労所得などで生活できる中間上層の家族の織りなす位置づけは、英国の知的階層に属するのだろうか。一方で低賃金で働く一般労働者の代表がレナード・バスト。

誰が、カントリー・ハウスを相続するか、それが、物語の筋として大きな位置を占めている。病死した女性の揉み消された遺言が実現する不思議な物語だ。家が持ち主を選んだような不思議さが全体を包んでいる。主人公の姉妹が活き活きとしている。

家へのこだわり。家とは何だろう。生まれた家、幼少年期を過ごした家、人生の大半を過ごした家、自然が豊かで草花があふれる家、余生を過ごした家、様々な思い出を重ねた家、砦のような家、嫌な思いが残る家、希望に溢れた家、絶望的な家、開かれた家、閉ざされた家、生きる糧になる家、生きる糧そのものの家、逃げ出したい家、隠れたい家、笑いが弾けた家、怒りが渦巻いた家、友人や知人が集う家、孤独な家~。家の顔は多様で、有形無形の実存が込められているようだ。

映画の中身にはもっと触れたいが~。

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