漫画論や比較文学論の研究者本浜秀彦の「呪術少女たちの琉球・沖縄」ーー[テンペスト」現象を読むーは面白かった。マンガとの親和的な語り、徹底した「エンタメ」小説、[観光地物語」の域出ず、娯楽小説に歴史認識問う、などの新聞見出しのコピーも「なるほど」である。
マンガ論を比喩しながら、リボンの騎士やベルサイユの薔薇など、男装する美少女物語の系譜にあると指摘し、「開発された歴史」のフレームワークにおさまる観光地としての「首里城公園物語」である。そして[復帰世代」の特徴的な心性(メンタリティー)に[日本]を無意識の前提とする傾向があるのだろうか、とも記している。しかし結論はこの力作を心から歓迎している。批評する意識としては知識のバンクからこの作品を切り込む冴えを見せる必要があり、本浜秀彦のこの間の研究の裾野からどう読めたかの開示である。
大塚英志の視点「歴史認識の薄さ」ともつながるし、また比屋根薫が問題にした「近代の超克」の軽さにも共通項が感じられる。真鶴はあっさり薩摩の在番の一人雅博との恋を全うする(抱かれる)とかーー。つまり琉球王府の存亡をかけた闘いが、あっさり明治維新の余波を受けた日本の近代の軍隊の前でひれ伏したことへの意義申し立てであるが、歴史はどうだったのか?
歴史認識の軽さと批評するのは簡単だろうが、たとえば、これは平田太一の平面的なパターン化した「現代組踊」と同じで、それは歴史への導入的な物語でしかない。エンタメ、ファンタジーである。その歴史的根拠なり根っこの物語は、その次の段階に読者が自らステップを踏まなければならない。少なくとも、現況は、日本の中の琉球/沖縄であり、日本を無意識の前提とすることなど批判にあたらない。明治12年以降、日本に併合された沖縄は、その表現する表記も日本語になったのである。
本浜英彦も日本を前提に論を書き、書物を発行しているのでは?それとも幻想の琉球/沖縄を前提に書いているのだろうか?ウチナーグチ表記はこれからの課題で、口語流通媒体としてだけではなく、ウチナーグチの表記をすることは、歴史や文化の記憶(装置)としての言語を残すため、今後、琉球/沖縄の大きな文化運動にならざるを得ないと考えているが、それにしても、他者なり、日本語を読める日本人への共感を求めているのではないだろうか?そして世界のエスニックな民族、集団、人々に向かっての発信でもある。
池上が日本語で日本のマジョリティーの読者に読ませる物語を、琉球王府の最後のステージを素材に縦横に存分に一人の美少女を中心に紡いだ。そこには実際の琉球の歴史の破片がきらきら宝石のように輝いて光を放っているではないか!?マンガチックな語りもある。いかにも現代娘の口語を意図的に使ってもいる。一方で琉歌を琉球・沖縄のリズム(心性)として置いた。また科挙の問題の候文や外交文書の漢文も英文も挿入する。爽快な時代を別の切り口で描いたのである。琉球の歴史すら中学高校で学んでこなかった沖縄の若者たちにとっても、自らの歴史を顧みる契機になるであろう。まして女たち!多くの疎外されている女たちにとっては、真鶴(寧恩)はヒーロー/ヒロインである。
物語構成はシェイクスピアの男装する主人公たちと比較検証したい欲望を引き起こす。「テンペスト」「十二夜」「お気に召すまま」「ヴェニスの商人」などなど。また私が今取り組んでいる女の表象の点でもとても「聞得大君」と「尾類(じゅり)」など、興味深い!と付け加えておきたい!仲間由紀恵が真鶴を演じる舞台を是非来春は見に行きたい!東京へ!
東京公演「赤坂ACTシアター」2011年2月6日~2月28日まで
大阪公演「新歌舞伎座2011年3月5日~20日まで
http://tempest2011.jp
大学院の授業の一環として歴史と文学をテーマに論じている中で池上の『テンペスト』が取り上げられたが、那覇の街を描いている最新の『トロイメライ』をこれから詳細に論じていくことになる。『トロイメライ』も同じようなノリで連載小説になるのだろう、キーになる人物がこれからどう膨らんでいくか楽しみだ。
所でこの授業では、ただ池上だけを論じるわけではない。大城立裕、又吉栄喜、目取真俊などの作品も作家論も話題になる。『オキナワの少年』の東峰夫の話も飛び交う。あまり作家論なり作品論なり小説に関して書いたことはなく、この間演劇作品をメインに見ていたゆえに新鮮である。最も、大城作品や目取真作品などは意識的に読んでいる。大城の新作組踊は全部見ているし、国際学会では研究発表をしたいと考えている。また目取真の作品と作家のスタンスはとても関心を持っていて、総体的に結論としては私は目取真俊とその作品に非常に関心をもって見ているのが事実だ!研究対象としても取り上げたいと前々から考えている。
池上と目取真を並べると、やはり目取真さんだね!売れる作家の作品もいいが、世界を視座に置いたとき文学の価値は何だろう?いろいろ考えざるをえない。
マンガ論を比喩しながら、リボンの騎士やベルサイユの薔薇など、男装する美少女物語の系譜にあると指摘し、「開発された歴史」のフレームワークにおさまる観光地としての「首里城公園物語」である。そして[復帰世代」の特徴的な心性(メンタリティー)に[日本]を無意識の前提とする傾向があるのだろうか、とも記している。しかし結論はこの力作を心から歓迎している。批評する意識としては知識のバンクからこの作品を切り込む冴えを見せる必要があり、本浜秀彦のこの間の研究の裾野からどう読めたかの開示である。
大塚英志の視点「歴史認識の薄さ」ともつながるし、また比屋根薫が問題にした「近代の超克」の軽さにも共通項が感じられる。真鶴はあっさり薩摩の在番の一人雅博との恋を全うする(抱かれる)とかーー。つまり琉球王府の存亡をかけた闘いが、あっさり明治維新の余波を受けた日本の近代の軍隊の前でひれ伏したことへの意義申し立てであるが、歴史はどうだったのか?
歴史認識の軽さと批評するのは簡単だろうが、たとえば、これは平田太一の平面的なパターン化した「現代組踊」と同じで、それは歴史への導入的な物語でしかない。エンタメ、ファンタジーである。その歴史的根拠なり根っこの物語は、その次の段階に読者が自らステップを踏まなければならない。少なくとも、現況は、日本の中の琉球/沖縄であり、日本を無意識の前提とすることなど批判にあたらない。明治12年以降、日本に併合された沖縄は、その表現する表記も日本語になったのである。
本浜英彦も日本を前提に論を書き、書物を発行しているのでは?それとも幻想の琉球/沖縄を前提に書いているのだろうか?ウチナーグチ表記はこれからの課題で、口語流通媒体としてだけではなく、ウチナーグチの表記をすることは、歴史や文化の記憶(装置)としての言語を残すため、今後、琉球/沖縄の大きな文化運動にならざるを得ないと考えているが、それにしても、他者なり、日本語を読める日本人への共感を求めているのではないだろうか?そして世界のエスニックな民族、集団、人々に向かっての発信でもある。
池上が日本語で日本のマジョリティーの読者に読ませる物語を、琉球王府の最後のステージを素材に縦横に存分に一人の美少女を中心に紡いだ。そこには実際の琉球の歴史の破片がきらきら宝石のように輝いて光を放っているではないか!?マンガチックな語りもある。いかにも現代娘の口語を意図的に使ってもいる。一方で琉歌を琉球・沖縄のリズム(心性)として置いた。また科挙の問題の候文や外交文書の漢文も英文も挿入する。爽快な時代を別の切り口で描いたのである。琉球の歴史すら中学高校で学んでこなかった沖縄の若者たちにとっても、自らの歴史を顧みる契機になるであろう。まして女たち!多くの疎外されている女たちにとっては、真鶴(寧恩)はヒーロー/ヒロインである。
物語構成はシェイクスピアの男装する主人公たちと比較検証したい欲望を引き起こす。「テンペスト」「十二夜」「お気に召すまま」「ヴェニスの商人」などなど。また私が今取り組んでいる女の表象の点でもとても「聞得大君」と「尾類(じゅり)」など、興味深い!と付け加えておきたい!仲間由紀恵が真鶴を演じる舞台を是非来春は見に行きたい!東京へ!
東京公演「赤坂ACTシアター」2011年2月6日~2月28日まで
大阪公演「新歌舞伎座2011年3月5日~20日まで
http://tempest2011.jp
大学院の授業の一環として歴史と文学をテーマに論じている中で池上の『テンペスト』が取り上げられたが、那覇の街を描いている最新の『トロイメライ』をこれから詳細に論じていくことになる。『トロイメライ』も同じようなノリで連載小説になるのだろう、キーになる人物がこれからどう膨らんでいくか楽しみだ。
所でこの授業では、ただ池上だけを論じるわけではない。大城立裕、又吉栄喜、目取真俊などの作品も作家論も話題になる。『オキナワの少年』の東峰夫の話も飛び交う。あまり作家論なり作品論なり小説に関して書いたことはなく、この間演劇作品をメインに見ていたゆえに新鮮である。最も、大城作品や目取真作品などは意識的に読んでいる。大城の新作組踊は全部見ているし、国際学会では研究発表をしたいと考えている。また目取真の作品と作家のスタンスはとても関心を持っていて、総体的に結論としては私は目取真俊とその作品に非常に関心をもって見ているのが事実だ!研究対象としても取り上げたいと前々から考えている。
池上と目取真を並べると、やはり目取真さんだね!売れる作家の作品もいいが、世界を視座に置いたとき文学の価値は何だろう?いろいろ考えざるをえない。