(映像の中の劇中劇:沖縄芝居が面白かった☆)
「真夏の夜の夢」の多様な表象(舞台、映像)を日本や沖縄に絞って博論を書いている知人の教授からいただいたDVDを例のごとくPCの前で学生のレポートを読みながら聞いていたのだが、いつの間にか映像を追いかけていた。だから返すべきレポートの評価は前に進まない。エアコンが効きすぎて、身体の調子は悪くなるばかりで、やれやれの昨今!風を通し人工的なエアコンがいらなかったのどかな生活はもうないのである。那覇のはずれの中古住宅は二階のベランダや窓のアルミサッシを開け放ってもいい環境なので、夜になると虫の音色が聞こえ、PCの前にいても鳩やメジロや他の鳥たちの鳴き声、最近はけたましいセミの啼き声が入ってくる。それだけはいい。耳をつんざく人工的な機械音も入ってくる。ヘリや戦闘機の騒音だ。それがひどくなっている。
ところで映像の中に赤ショービンや磯ヒヨドリの鳴き声が入っていた。虫たちの合奏、セミの合奏はあまり聞こえなかった。もっと自然の音色を感じたいと思った。映画の中の芝居が面白かった。石垣や月の擬人化された動きが小学校の頃の学芸会の擬人化された造形に重なり、うちなー芝居の色合いがその着物姿や結髪と共に懐かしさを演出していた。映像の物語について書くと時間が長くなるので、あとでDVDの中の映像の一部を写真で紹介しょうかな!伊是名島にまた行きたくなった。あのさんかく山は懐かしい気がした。先祖は第二尚家の尚清からの流れだと家譜にある。そのルーツからすると、伊是名島は先祖とご縁があるということになる。キジムナーの表象がシェイクスピアが書いたファンタジーの中の妖精の沖縄バージョンだが、文化変容、ディフォルメ化されるその手触りとイメージが現代にどう訴えるのか。シンプルな大げさなLOVE STORYがまた新作沖縄芝居になると、そこに薩摩もからめた夢の媚薬が登場したのだった。物語の種がどんどん変容して違った花や実をつけていく面白さは文化そのものの変容性なり不可逆性のありようなのだろう。
弥勒神さまのお出まし☆
恋人たちを遮る石垣☆
キジムナー(故郷の伝承の神・自然)の現代への甦りは可能か?意外と沖縄を題材にした映画をあまり見ていないのでした。映画批評としては面白いのが書けるのかもしれない。高嶺剛の作品にしても、役者は沖縄芝居の役者が軸である、ということが、関心をそそられる。