(とまとの苗が育っている不思議!)
首や肩が重たくなり、限界だと思った。病院から以前処方してもらった湿布も切れていた。ひさぶりの電気治療、首の牽引、腰の牽引をすると気分が少し楽になっていた。疲れは湿布を首の周りに貼ると、とれてきた。帰り際、故人となった家族のありし日、つい最近まで身近にいて、苦しそうな顔をしたりしていた姿を思い出しながら運転していると、涙が出てきた。
撮りためていた写真を見たせいでもある。病院の椅子の上でくるしそうに顔をゆがめている姿、ベッドの上で詩集を読んでいる姿、抗がん剤を投与しながら看護師さんに話しかけている姿、病院で言い争った事なども記憶にこびりついている。想像以上に苦しさを全身全霊で耐えていたに違いない。病院の帰りは車椅子でスーパーで好きな惣菜などを買うのを楽しみにしていた。しかしだんだんと好きな惣菜も限られてきた~。
喪に服す時が流れている。悲しいと思う間もなく時は過ぎていく。
深い、深い人の優しさと志情き(け)を経験する時間でもあった。
この世は魑魅魍魎が跋扈するのも事実に違いない。近い、そして遠い歴史を振りかえると、おぞましくて目を背けたくなる事も連綿と続いている。一方で善の権化のような美しい人間の存在がある。神か仏か、女神かと思える人々が身近に存在する経験がまだぼーっとしている現況に勇気を与えている。
通夜、葬儀・告別式、火葬の一連の見送る儀式はこの世からあの世への境界を渡る大事な時間。小さな癌細胞のよう生まれてすでに死を内包する身体〈生命〉のモラトリウムを生きている。いかに生きるか、いかに死ぬか、実は重なっているのだと何千年も前に言及されている。進化の過程はこの身体に刻まれ微生物と共に時間を育んでいる。意識が結晶体のようになった魂も実在すると、詩人のIさんはメールを下さった。魂は永遠だと~。
compassion、思いやり、慈愛に包まれて思いがけない(しかし来るべき)超えなければならない時を超えた昨今だった。それらのすべてを記憶にとどめたいのだが~。
webにあるおまいりページより焼香と献花をさせていただきました。