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小説『テンペスト』の比喩と歴史像の検討ーー素材としての史実と創作の間ーby後田多 敦はいいね!

2012-06-01 02:58:23 | グローカルな文化現象
今日、沖大地域研から送られてきた「地域研究」に掲載された池上永一の小説『テンペスト』の論稿を読み終えたばかりで、後田多敦さんの新しい解釈にこれまでにない新鮮なものを感じた。ただ分かりやすく論じている様々な鍵は馴染みのある言葉でもあり一皮向けば、そうなのね、の感じもするが、しかし、そのように切開してみせた手際はやはりいいですね。あなたの感性・知性の魅力です。

目を覚まさせる、新しい視点を開示する論稿の味わいは格別で、氏の著書も丁寧に読みたいと思った。実際読みますね。

さてこの論文の面白さは帰納法的に新聞で話題になった論壇での熱さを冒頭にもってきてーー高江洲義寛さんがNHKの『テンペスト』放映に疑問を呈した事柄、琉球王府を歪曲し、落とし込めた歴史小説だということへの疑問から始まっている。対して時代小説だから面白ければいいのではないの、の論調との両極を提示して、氏独自の小説の分析をしてみせた。

まず真鶴と丁溫の二重のアイデンティティーを清と薩摩に両属していた琉球の身体としての人格と捉えたところで、後田多さんの論は展開していく。そこが冴えている。

本来の性としての女性、偽装された男性としての有能な官吏の属性を担った琉球の擬人化、だが、もっと別の読み方も可能かとも思えた。しかし徐丁垓が宦官で清を人格化した存在、一方薩摩を人格化した雅博を女・真鶴は愛している。いかにもの歴史の構図がある。しかし、琉球をいわば冊封体制の中でその独立を是認していた清の描写は卑猥で悪辣な描き方であり、その呪縛から逃れるために徐を殺す寧温である。かたや琉球を植民地にした薩摩の役人を美化して素敵な恋人に仕立て上げている。「小説なんて売れてなんぼ」と言い切る池上の市場を意識した物語の構築も感じさせるが、常に女、真鶴を守るいい男の立場が雅博である。十二分に女性読者の感性をくすぐる。

イメージの中の清と薩摩の逆の歴史を後田多さんは開示していく。ヤマトこそが無理やり琉球を武力で暴力で収奪(レイプ)したのである。そうしたセクシュアルなイメージが散りばめられる。池上の物語そのものが歴史の修正だという批判が明らかになっていく。そして聞得大君真牛の物語の中で「落ちるところまで落とされる筋書き」そのものはまた真鶴/寧溫=琉球の人格化とは異なる琉球の精神性‥信仰・祭祀世界を象徴するが、ユタ、ジュリ、ペリー提督の兵士によるレイプ、ニンブチャー(下層の葬儀の仕事)にまで身を落とす。しかし、琉球の神の如き存在が踏みにじられ底辺に彷徨う姿はいじましい。現在に至る琉球‥沖縄の鎖につながれた植民地を象徴するとしても、しかし真牛は自殺する。

寧溫、明(尚泰の息子)真牛の儀式は琉球国と守護神キンマモンの葬送の儀礼である。琉球的なものの死を意味すると後田多氏。

単なる面白い時代小説のはずの『テンペスト』が強烈なイメージで歴史の修正を果たすその政治的意味合いを危惧して論は閉じられる。

なるほどで、そう読み取れることはその通りだろうと感じた。つまり歴史は歪められる。その書き換えや隠蔽、捏造は様々に権力にある場からなされる。隠蔽に加担するフィクションもありえる。メディアによる大衆操作を見せつけられる現在である。透明な明るさの中で、民主的な装いの中で操作が大胆になされる時代である。そこから見えてくることは表象も含めてあらゆる存在や事象や運動や実態が政治そのもののダイナミズムの中にあるという事かもしれない。

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