志情(しなさき)の海へ

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「地揺を舞台上から消すな」と、西銘郁和氏は琉球新報論壇で訴えていますね!

2011-06-28 22:27:09 | 沖縄演劇
ある方からお電話があり、「今日の論壇を読みましたか」という事だった。それで急いで今朝の新聞に目を通した。西銘さんは真剣に【組踊】の地揺方の立場を代弁している。発端は、わたしもとても関心を持った、去った5月15日の御冠船の復元舞台「忠臣身替の巻」である。氏の問題提起は【御冠船の舞台を資料検証して再現した」その舞台上から地揺方が排除されたことへの怒りである。そして1719年中秋の宴の様子を描いたスケッチ(叙葆光の【中山伝信録】)の仮設舞台は三間四方で舞台の上手奥と下手奥に確かに地謡の方々の姿が描かれていて、獅子舞が披露されている図絵である。中国風の衣装にも見える姿で演舞している様子が伺われる。

確かに1719年のこの「中秋の宴」の様子から、立方と地謡が共に舞台で共演している。それが御冠船の初原の型だとするとその後、1756年、1800年、1808年、1838年、そして1866年にはどう上演されたのかが気になってくる。朝薫の組踊は「重陽の宴」で上演されたと記載されている。龍潭池(1427年に作庭された人工池。大池は竜頭形に掘られ、池の周囲416メートル、面積は8400平方メートル。 昔、冊封使滞在中の重陽の日(旧暦9月9日)には、冊封使一行を歓迎するための龍丹宴が開かれていました。首里城が水面に映り、琉球随一の名勝地であったといわれている)でのハーリー船のような競演≪競争?≫が描かれ、同じく仮設舞台で組踊が演じられた様子が伺われる。しかしどように舞台化されたか、その図絵からは分からない。(もう少し【中山伝信録】を丁寧に読まなければーー)

御冠船の舞台の復元は1838年の戌の御冠船の復元だとの事だった。三間四方の舞台図面を大城学氏が紹介している。「城元中秋宴之図」も県立図書館の資料で目にすることができる。能楽堂の屋根付き舞台に似通っている。その図面を見ると立方や地方の姿が舞台から見えない。地揺方が舞台上で演奏したのかもしれないし、そうでないのかもしれない。1866年の舞台図にははっきり舞台の後に幕があり地揺方は二間四方のその幕の後で演奏しているという事になるようだ。

そして多良間や村々の芝居や舞踊では、地揺方は姿が見えない。幕の後に陣取っているのである。昨今組踊の系譜のテーマに取り組んでいるが、(まだ何もしっかりまとめていない状況だが)劇場の変遷がどうなっているのか気になって少し調べてみた。関心をもって見ているが、西銘さんのご指摘はあくまで1719年のスケッチ≪絵図≫を元に論を展開されている。その姿からすると立方も地揺方も同席の舞台であるべきだという事になる。その後の展開において、どうも地揺方は紅型幕の後で美声を披露したということが見てとれる。

廃藩置県の1879年以前から組踊が村々に伝播され演じられた痕跡が1800年代初期からその形跡が組踊台本(写本)の実際から伺われるが、1800年代の舞台の様式なり形態が村々に伝播されそれが現在にいたる痕跡として残っていると見ていいのだろう。

すると5月15日の研究公演「御冠船の再現」は決してすべて否定されるべきものではなかったと言える。西銘さんの故郷の村踊の舞台はどうなっているのだろうか?村の踊りは仮設舞台で地揺は姿は見えなくとも大きな存在を持って君臨しているというのが私の村での体験である。

【6月25日、大城(親泊)ナミさんの独演会で見た花風】

観客に姿を晒さないこと、顔を見せないことが、「天下の一大事」というほどの事でもないと思えるのだが、どうなのだろう?
従来の額縁舞台において地揺方が姿を見せる公演が続いてきた。姿が見える地揺方と共演する組踊も味わい深く、馴染んできた。一方で今回実に立体的に見えた組踊の再現の面白さも無視できない。地方も少人数でなされてきたとの歴史資料がある。

だから御冠船の再現舞台の後のシンポジウムで城間徳太郎先生が、窮屈に感じたという御感想もなるほどに感じたが、いろいろな意味で地揺方の在り方も考慮されるべきだと考える。地揺方の両サイドが北表、南表になり、出入りがある。窮屈感は実際そうだろし、何より【落ち着かない】だろうと推測できる。

先日、6月19日に横浜能楽堂で上演された組踊「花売の縁」を見た。地揺方の方々は緊張するが、とてもいい舞台だとお話されていた。顔が見える舞台の方がいいと西江喜春先生もお話されていた。幕の後に隠される舞台の在り様への違和感が地揺方の間で充満しているのだろうか?

この間顔が見える舞台形態を続けてきた額縁舞台の組踊に共感を覚える声が多であれば、その形態を維持し継承する上演もまたあってしかるべきなのだろう。すべて顔の見えない昨今の組踊である。のびやかな屋外の仮設舞台の地揺とも異なる劇場(箱の中の窒息感)も気になる。国立劇場おきなわにはのびやかな風は流れていない。能舞台、能楽劇場のような自然の光で工夫されたのびやかな自然の空気が流れない窮屈さを再現している沖縄の組踊劇場は、張り出し舞台でも、なぜか矯正された身体、音曲、歌・三線が溢れているのかもしれない。劇場と観客、そして社会の在り様をもっとじっくり見てみたい。

実演家のみなさんや観客の声をもっともっと吸い上げることが要求されているようだ。しかし劇場の中で「感性や魂がのびやかに解放されない」というのが、一番の問題だと考える。

大衆芸術ですよね。おしゃれにかしこまって見る舞台への距離感もあり続ける。
(写真は1719年の重陽の宴)

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2 コメント

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ブログの限界を感じますね! (なさき)
2011-07-01 06:48:50
沖縄の演劇、特に昨今は組踊への関心が高まっていて、このブログでもレスがあって興趣が深まっているような雰囲気も感じますが、コミットする方々のそれぞれの思いこみがまずあり、そして誤解が生じているというのが、率直な思いです。

そして特権だの、無邪気で素朴すぎる、などの表現などで、各自の思いこみでブログに書かれた文面を解釈し、時に曲解し、それに応答していく。

その表象の奥にあるものまで思いが届かないのはどうしょうもなくやはり論稿の形で論を展開していくよりほかないのだろうか、と考えています。そしてそれは今取り組んでいる事でもあるのですが、西銘さんの大胆なご発言は、私がお聞きした地謡の方の思いに重なるところもあり、興味を持ったのです。それと最近組踊の系譜のテーマが念頭にあり、劇場と社会の関係性がどうなっているのか、遅ればせながら調べていて、村踊りや村芝居を劇場空間と異なるという事で切ってしまうことも、どうなのかと考えています。既知の村の人間関係も確かにあります。それを論じるにも時間がかかるのですが、組踊の系譜を見た時、村々の芸能の痕跡の中に歴史の推移が大きく浮かび上がってくるのも事実です。

劇場とは何でしょうね。国立劇場の外部研究員という批判も「どうも」です。このブログをまぁ興味深く読んでくださった方はご存知と思うのですが(もう一つのブログも含めて)、国立劇場おきなわの在り様におそらく芸大の板谷徹さん同様、ある面で批判的なスタンスを持ちながらかなり頻繁に訪れる観客であり、批評・研究している人間だと自認しております。

演劇空間(Performance Arts)総体に関心を持っています。それはこの現実社会がまた劇場だという認識にもつながると考えています。

地揺方の在り方など、もっと激しく論じられていいと思います。あなたのご発言はその発端になったのではないでしょうか?優れた実演家の皆さま方が本音でお話合いをされることが次の一歩でしょうか?

姿の見える地揺方、姿が見えない地揺方?両方があっていい舞台?

そういえば5・15の【御冠船】の再現舞台の後のシンポジウムでお能の研究者は地揺方をさえぎっている紅型幕はなくてもいいね、とお話されていましたね。その形態の上演もまた見たいものです。

あなたがご指摘しているように固定化の危険性を払拭し、より感動できる劇湯空間を目指す方向性はいつでも好ましいことだと考えています。それを主張するのは私たちの権利でもあるはずです。互いに論じ合うことがまず大事なんですよね。

余談ですが、このブログにコメントされる男性の方々のロゴスの展開の在りようにも興味をもっています。
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国立Gおきなわを代弁? (西銘 郁和)
2011-06-30 17:59:41
 冠省 Y・A様、拙「論欄」へのコメントありがとうございます。
 もしかしたら、国立Gおきなわの外部研究員ともなられたのかな?との思いが真っ先の感想です。
 舞台上に求める感動とか出会いとかは、たぶん「研究」などでは見えないものだという気がします。どうすればより感動の舞台が作られるかが、私が言いたい核心なのです。
 まず、一言言っておきたいのは、私はあくまでも「観客」の立場で舞台の在るべき姿を訴えたつもりです。「地謡方の立場を代弁している」というのは誤解です。
 それに、私が不満なのは、何も5月15日の実験舞台のみのことではありません。
 国立劇場おきなわが目指している、地謡方排除の姿勢は今始まったものではない。あの実験によって、その目指している形式がはっきりと固定化される、その様相がかいま見えるからこそ、まさに「天下の一大事」なのです。
 Yさん、図絵のなかに「幕」が見えただけで「地謡たちが幕の後ろにいた」と解するのは、不自然ではないでしょうか? それは、そうあってほしい側の自己都合の解釈とはいえないのかナ?
 また、村芝居と、劇場劇は同じ土俵では語れない。なのに、これまた「村芝居では幕の内に地謡がいる」から「劇場組踊」でもそうあってもおかしくないと、短絡してしまう。
 村芝居では、村の皆が知っている人が三線を奏謡する。従って、地謡の傍や、舞台袖にまで子供たちが群れることもある。所詮同一に論じるのは無理な話です。服装も、様式もちがう。
 劇場舞台に村芝居の雰囲気を夢見、求めているというようなニュアンスも、ちょっと無邪気で素朴すぎると思いますね。
 まだまだ書き足りない思いですが、今日はこのくらいとしておきましょう。   西銘
  
  

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