「フェミニズム論から見る沖縄演劇」の論考を書くために渡辺 保さんのこの著書を読ませていただいた。ただなぜ世界演劇において女性が排除されたか、その二つの理由だけで説明がなされたとは思えない。歌舞伎の始祖・出雲のお国にも言及しているが、お国以降に女形が登場した背景はもっと掘り下げられなけらばならないのだろう。近代化が遅れたとの説明もある。つまりそれゆえに日本はお能、歌舞伎、文楽は近代以降も女形文化だとのことである。さて沖縄はどうなのだろう?日本の古典芸能とまったく同じではない背景があるようだ。渡辺保さんははっきり書いていないが、女性は男性と同等ではなく、芸をする女性たち、芸妓は娼妓でもあった。巫娼の歴史と関係すると言えないだろうか?琉球・沖縄の事例は今、まとめている最中である。
宗教的禁忌は祭祀芸能のほとんどが女性たちがになっている琉球・沖縄と異なる。しかし類似性はある。お能や歌舞伎や狂言、中国戯曲などから何らかの影響を受けて創作された組踊ゆえにー。楽童たち(若衆たち)が初期の組踊の主役だったとみなしていいだろうか?二才の登場は田里以降だとの論がある。
デフォルメされて、現実に存在しない女たち?男たちは、現実に存在しないデフォルメされた登場人物ではなかったが、女はデフォルメされた記号だった。男は実在で女は記号である。おかしいね。神話的な物語が演劇だった、も理由にならないね。神話だけが舞台化されたわけではないのだから、理にあわない。
歌舞伎の女形の代表は遊女の役柄が多い。多くの作品が残されている。お能の女方は抽象化された女の化身のようでマスクをかぶる。お能と歌舞伎や文楽の違いは興味深い。さて組踊の場合はどうなのだろう?組踊は1719年以来1866の寅の御冠船まで25作が冊封使の前で上演されている。その作品の中の女たちはどう演じれてきたのだろうか?1719 1756 1800 1808 1836 1866年の冊封で上演された組踊である。1800年の尚温王の歓待は地味なものになったというがー。そのなかで主体的に物語をリードするのは宿の女と乙樽さんあたりだね。姉妹敵討の姉妹なども。手水の縁の玉津もいたが公に外交・歓待の場で上演された形跡はないようだー。デフォルメではなくキャラクターそのものがフィクションの女性たちで、演技者の男性たちが女方でデフォルメされたとみていいだろうか?しかし、宮廷芸能が観衆の目線を浴びて変容し、そのスタイルが磨かれていったのは少なくとも近代以降で、女性が堂々と舞台に立ったのは東京・大阪では明治でも沖縄は大正・昭和になって多少見られるくらいである。近代化=西欧化の速度が速かった東京大阪に比べて、沖縄のスピードは遅かった。それでも女性が戦前組踊の舞台に立っているのだ。1972年の復帰以降、女形が登場してきた。古式を踏襲するというわけだが、果たして女形芸は生身の女性のキャラを演技を凌駕しているのだろうか?女性芸能者による『忠孝婦人』の乙樽を見たい。
谷茶の按司に対する女性芸能者の乙樽の長い修辞に富む唱えを聞いてみたいものだ。誰ができるだろうか?若手では唱えが魅力的で立ち姿も美しい有望な舞踊家がけっこういますね!
男たちが踏襲してきた琉球沖縄芸能の裾野に女性たちの姿はせり出してきますね!すでに廃藩置県前後の資料から遊郭でも組踊が演じられていたことがわかります。女性たちが歓待芸能として演じていたのです。1719年の徐葆光 が残した詩集や使録を見ると、女性たちが三弦を弾き、歌い踊っていますね。組踊や舞踊はその多くが座敷芸として演じられてきた度合いが多いですね。圧倒的だと言えます。薩摩の在番たちのために仮設舞台が那覇でもできていますからね。那覇でも演じられたのです。
オル目