(船頭主の瀬名波孝子さんとハンドー小の赤嶺啓子さん)
国立劇場おきなわ小劇場は熱かった。夜の部を見た。資金が幾分潤沢に使えるという事は、舞台美術にも影響がでる。セットがきちんとして、演技にも張りが見られた。なるほど、これが助成と組織力、いい舞台を見せたいという志の結果かと、感心した。
「美人妻 情の妻」は別名「妻貸します」である。以前も見たことがあるが、歌劇でありセリフ劇の面白さが加味されている。7人も夫を次から次へ変えているモーサー(前栄田文子)という「かーぎのいい」(きれいな)女性とポーポー屋のハンシー(与座喜美子)のやり取りもなかなか見せた。「夫のククルミー」ということばにある通りに、夫の愛情を試すため、友人に夫を誘惑させてその対応を見る妻グシー(平岡絵津子)がいたり、また学生時代の友人と妻勝負の約束事をして、まさに互いの妻の美人度を競うための会合がなされる。同じ職場の友人マチュー(泉 賀寿子)の美人妻メーヌー(島袋ゆかり)を一時だけ借りて友人を出し抜こうとするカマダー(知名剛史)がいるかと思えば、旧友正男(普久原明)は辻の愛らしいジュリ(立花愛希)の女性を伴ってきた。いずれ妻にする約束だという。
紅型を着た美しいジュリは着ていた衣装をほめられると、実は「旧二十日正月」にはもっと晴れやかでユイユイのジュリ馬に出るのだと、その素振りの踊りまでやってのける。互いに勝ち負けがなく素性が表にでて驚いたが、妻を貸すための日本語・ウチナーグチの証書がまた面白い。たっくぁいむっくゎいすべからず、とか、10分だけとか、などなど、まるで人が物のように証文に刻まれることばも奇想天外で笑えたが、大真面目でそれに引きずられていく夫もまた情けない滑稽さである。島袋ゆかりさんが味わい深いスピード感のある笑劇をいかにもの扮装・雰囲気で演じのけた。世話物的である。男役の泉賀寿子さんも男を演じのけた。前狂言としての面白さがはちきれた。しかし、現代劇である。明治大正時代の沖縄の世相を風刺した舞台である。
「伊江島ハンドー小」は地謡を含めてオール女だけの歌劇である。出来としては70点で悪くない。ハンドー小の赤嶺啓子さんは以前からこの役をやってきた方で、手慣れて見えた。去年若者たちの「伊江島ハンドー小」(伊良波さゆき演出)が大劇場で上演されたが、その舞台との比較を無意識にしていた、ということになるのだろう。あるいは真喜志康忠さんや兼城道子さんや伊良波冴子さんが出た舞台などとー。
印象として女性たちの村人や村頭(安次嶺利美)など、また地頭代主の島村屋の主(宮里良子)など、なかなかによく演じていたと思う。女だけの舞台の女の演技が過剰な情感を溢れさせることがある、という事実と、反対に男を演じるためにその役柄に気を取られ相手役との呼吸と情感に溝ができるということが感じられた。美人の玉城敦子さんの村人の役もはじけていた。
「船頭主を演じたい」と言葉にだした瀬名波孝子さんの船頭は男の声音を作りその従来の型を演じるために大変頑張ったことがうかがわれた。しかし型の模倣とその役を演じることが精いっぱいで相手を見ていないということが、クールでカッコいい船頭主だけど、情がない男になってしまった。
赤嶺さんのハンドー小は去年演じた花岡尚子さんの可憐さとはまた異なった。髪が崩れるほどに男に捨てられた女の痛ましさを歌い演じるその造形は、痛めつけられる(た)女の自害への一道(道行)である。まさに身体が崩れる演技である。愛らしい顔の表情が浮かび上がる。情・無情の境目にあるもの、それが男の自己保身だということが見えてくる。志情が簡単に袖にされる、「石に花がさいても、二人の思いは変わらない」と誓い合った男女のことばが簡単に覆されたのは、義理の社会のしがらみであり、規範故でもあるのだが、それがまた人間の情・無情でもあったのだ。
男のことばと愛の真実を求めて追いかけるハンドー小の覚悟が痛々しい。信じた幻想が嘘だとわかったときの絶望は、幻想をさらに現実の刃が切り裂いたのだからたまらない。もやは自らの感性・純粋な思いさえ汚濁に包まれたものへと置換されていく。ぎりぎりの彼女の誇りが自らを殺すという行為に至らせる。
演技やセリフに過剰さが感じられたのは地頭代主・加那の父親の演技である。すがりつくハンドー小を振り切って加那が逃げた後、「さんぐゎナー」(娼婦)と呼び捨て、傘で何度も彼女を叩くのである。普段は一回か二回が記憶に残っているが、「胴骨(どぅぶに)おおらやー」と手ひどい仕打ちをする。まさにDVのような男性によるかよわき女性への暴力現場である。身体も精神もずたずたにされた人間は自ら死を受け入れる。つまりどんな仕打ちを受けても殺されてもそれを無意識に受け入れる状態になっていくのが暴力の極致だとすると、しかし、ハンドー小には己に対する自負心が残っていたのである。彼女は自ら死によって誇りを保とうとした。それは嘘偽りを見分けることのできなかった自らへの処罰的な受苦の行為でもあろうか。
すでに型となった自死の場面は壮絶である。今回その背景幕は全くそぐわなかった。明るすぎた。マチ小役の知念亜紀は去年も同じ役で大劇場に立っている。歌唱がいい。地謡は、女性の歌がいい。古典もいい。なるほどで聴かせてくれた。
その後の島村屋の場面へと続くが、「うまーめー、くまーくしやさ」の場面で船頭主が地頭代主の背中を蹴る場面があって気になった。船頭主の人情味がそがれた場面だ。人として人の情けに報いる人間が身体に暴力的な行為をして見せたのだが、抑制された所に人はまた感銘を受ける。今回「さんぐゎなー」のことばが何回か繰り返されたり、一方でハンドー小をいびる場面での強烈さの露骨な点が、くそリアリズムの醜悪さにも見えた。
女だけの演技や舞台のもつ過剰さと、逆にそっけないクールさが対象的だが、実は互いに互いを見据えることができなかった結果として出たのだという結論にしたい。出来は70点ほどかな?ご苦労様、よく笑って胸が痛みました。
こなれた舞台になったいいね。女性フアンが増える可能性は高い!劇団乙姫の「伊江島ハンドー小」はどうだっただろうか?「乙姫」を引き継いだ「うない」のブランド性は高いと言える。負けずにいい舞台を見せてほしい。