志情(しなさき)の海へ

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佐伯順子『女装と男装」の文化史を読んで朝が過ぎた。以前購入したが今頃気になった!

2015-02-14 15:03:28 | ジュリ(遊女)の諸相:科研課題

この佐伯さんの女装・男装とジュリがどう結び付くか、直接的に結びつかないのかもしれないが彼女の事例の中には「道成寺」があったりする。お能の中でも異性装があり、古事記のヤマトタケルノミコトもまた女装して敵を討つ。男から女への場合、女=弱きもの、性的搾取されやすいというステレオタイプで描写されるケースが多い。男装する女性の場合、古今東西類似した現象がみられる。この本は面白いのでさっと読んだ。小説、演劇、映画、漫画など、東西比較になっていて読ませる。池上永一の『テンペスト』を思い出した。男装する女性である。彼女の物語の結末もこの論稿の中の男装する女性たちと同じパターンが見られる。男装の女性たちの幸せな結末は結婚である。結婚幻想が描かれる。ステレオタイプの事例の中で特異なのは、『ベルばら」だったとかー?イスラム圏の女性たちの男装による平等へのアクションがある。それは痛ましくも現況も示している。伝統と習俗を超える結界、境界を求め続ける思いはいつの日か超えていくに違いない。力と武力、男性もまたそのSEXがつくられていく。

女性が有能であるためには=男の属性を帯びざるをえない、も、どこかで見た聞いたパラダイムと一緒だけど、異性装がまた演じられるジェンダーだというlことは興味深い。ジュディス・バトラーさんの論が分かりやすく展開されている。

遊郭の女性が最もあこがれたのは、身請けされて平凡な妻になること。妻であり、母であることが最大幸福だった。琉球王府時代の身分社会でジュリが≪妻≫になることは殆どないに等しかった。美しいジュリたちは詰めジュリ=妾になった。ジュリの中でもヘタイラのように力をもった女性もいたことは確かだろう。しかし、それも彼女を囲う旦那の政・経済的地位に匹敵したのかもしれないね。薩摩在番のアグシタリーになる女性たちは官選ジュリと呼ばれた。美しく素養の高い女性たちがあてがわれたのだろう。そうした彼女たちの歴史を手繰り寄せることも興味深い。

シェイクスピア時代の少年たちの両性具有性は琉球の冠船芸能の中の若衆と重なるところがあるね。

近世琉球が興味深いと思う。冠船芸能、端踊りの若衆、二才、女踊りの中身についてだが、女踊りはジュリを象徴したのが多いね。両性具有的な美だね。

若衆の両性具有性は楽童の美しさに表象されているが、女踊りもそうなります。どうも資料を読むときちんと解説して、骨の部分を言明したくないという沖縄的感性が諸にでているのだと、納得。伝統琉球舞踊の論理の追及は、表象をなぞっているのでしょうか?浜千鳥もジュリの表象ですね。川平節も玉城盛重さんなんですね。侮蔑した対象が表象に躍り出ているのは、歌舞伎が真っ先にきますね。歌舞伎の女形の美=お姫さまより遊女ですよね。琉球舞踊も、誠実に対象化する必要がありますね。美しかった彼女たちを形にしたのです。


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