志情(しなさき)の海へ

かなたとこなた、どこにいてもつながりあう21世紀!世界は劇場、この島も心も劇場!貴方も私も劇場の主人公!

沖縄の人間は厳しく相手を批判しないよ。「ふーじねーん」からね。優しさか、てーげーか?

2014-05-07 17:38:57 | グローカルな文化現象

明らかにミスなり問題のある書物に対して、いみじくもA先生はお話しした。「別に論争することもないよ。その本は研究分野の中で次第に無視され、淘汰されていくんだよ。ウチナーンチュはあまり論破しょうとしないね。なんくる嘘と本物は見分けがつくからね」とのことだった。書物の嘘に少し怒っていた心がそれで和らいだ。嘘を書いて平気な執筆者と書店の代表者の「本を売るための厚顔」が素敵に輝いている。

多くの方々が買い求めて読んで、あとで、問題があったとしてもそれでよしとするのである。その書物を書評で取り上げる新聞社の担当者のセンスもまたそれほどのもの、ということになる。見て見ぬふりをするのがいいのかどうか、わたしは、誤解が独り歩きしていくことが、怖い。それに対して「贖罪感」が起こらないのだろうか?不思議な世界である。

また主義主張のために、弱者を、傷んでいる者たちを排外する思想も意外と個々の心の中に潜んでいるのかもしれない。自分の考えが絶対ということはありえず、絶対倫理の在り様も玉石混淆かもしれない。カレイドスコープの真実だろうか?Aが絶対に正しくBが絶対に悪であるとも断定できない要因が常に付きまとっている。白と黒だけではなくグレーも赤も緑も黄色もある。科学的に実証できる事柄だけが真実なのだろうか?科学の真実もまた塗り替えられたりする。実証できるデーターの大切さが浮かび上がってくる。生と死、この絶対的なものがある。人は生まれて成長し、死ぬという絶対性がある。法律の絶対性もある。ことば=言説でくくる絶対性。それも約束事。掟・規範があり、それらのまた無数の条項に基づいて人間社会は営まれる。法律をだれが作るのか、法によって社会の形態の色合いがゆがんだり、より民主的に開かれたりもする。お互いの約束事・理念のありかがゆえにいつも問われる。憲法がそうだ。国の最高法規である憲法の護持・改正で揺れ続ける日本。

てーげーなーですまされない生きている現実がある。てーげーなーで許しあう居心地のよさ、もある。激しく罵倒することのない空間の安らぎがある。てーげーなーですまそうとする、それで許されると、高をくくっている顔がある。私自身なら自らを許さないだろう。でも彼らは、それをやってのける。「『中山伝信録』を残した徐葆光さんが、辻の女性を愛でた」なんて、ありえない、が歴史家と漢詩の専門家の見解である。

(最高法規=実定法の頂点に立ち、最も強い形式的効力をもつ成文法。日本国憲法は憲法を国の最高法規としている。)


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