最近のエロビデオって・・
このごろ上品な内容ばかり書いてるので
ストレスがたまってきましたw
ということで今日の話は、すこしエロ。
18歳未満と
エロ・下品耐性の無い方は、ご遠慮くださいw。
こないだ、山形出張行ったとき
夜デリを呼ぼうかなって思ったのですが
山形ってやたら人が少ないのね・・
ホテルのロビーも閑散としててねえ
こんなホテルにおねえちゃんを呼ぶのが忍びない。
デリに電話したら、
「急遽連れがきたので、ちょっと部屋に入れてくれってフロントに言ってください
その際追加料金取られる可能性がありますw」だってw
そんなくそ恥ずかしいことできるか?いやできはしまいw
思わず反語が出てしまったわ。
「そしたら待ち合わせして
ラブホテルまで送迎しますよw」って言われましたが
しらんおっさんとおねえちゃんと3人でラブホっていうのもねえ
それもねえwww
行きはよいよい、帰りがめさんこ恥ずかしいじゃんw
ということで、デリはちょっとあきらめました。
夜は長いよなあ
仕方が無いので、ホテルのテレビでエロビデオを見たのですが
今、すごいですね
ビデオオンデマンド、VODっていうんですか?
そんなシステムになってるんですね。
いままでの、ホテルのテレビだったら
漫然とテレビ番組と同じで
時間割にそって見なくちゃいけなかったのに
(何時の時代かw?)
でもVODってすごいね
DVDと一緒。最初から見れて、早送り巻き戻し可能!
恐るべし。
それにタイトル数もいっぱいあるぞw
ヒマにあかせて面白そうなタイトルのやつを流し見しましたわ。
ということで、その中でも相当面白かった奴を
報告するのだw
最初に見たのが
「有名女優の洗ってないあそこをクンニさせてくれますか?」
なんちゅうタイトル!
ちょっと笑ってしまいました。
内容は、モデルさんに
「3日間下着を替えないでください」とお願いして
撮影現場に来てもらうというもの。
もうね、筆舌に尽くしがたいくらい下品w
可愛いモデルさんのブラや御パンティーを脱がして
股間の汚れ具合を確認して
「なにこれ?●ンカス?」
「おしっこのにおいがするねえ」とか
もう下品極まりない言葉でモデルさんをいじめるわけですよ
そのあとで、クンニするだけのビデオなんですけど
それを4人のモデルで繰り返すだけ
あまりに下品すぎて、
何が面白いのか?って思ったけど
4人の汚れ具合の違いが興味深い。
それに
御パンティーを脱ぐときの恥じらいの表情が
なんともよかったw。
及第点だと思うぞ
有名女優の洗ってないアソコをクンニさせてくれますか? [DVD] | |
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10月5日の天声人語、日経春秋の両方に取り上げられてるのが
ビートルズ!
50年前の10月5日に初めてレコードを出した日だそうですね。
ビートルズと私は、ほぼ同じ年月を生きてきたのですね。
感無量
しかし、私が中学高校の頃は、ビートルズを理解するには幼すぎたんだよなあ
キャンディーズやピンクレディー、松田聖子に夢中だったもんなあw
同世代でちょと大人の連中が、ビートルズの 赤盤、青盤とかの話をしてたのは
覚えてるんだけどねw
わしが、ビートルズの曲に始めて接したのは
音楽の教科書でのイエスタディだったか・・そんなレベル
洋楽に興味を持ち始めたときには、すでに解散し
かつ、1980年のあの事件がおきてましたからねえ・・
なもんで、語るほどの思い入れが無いのが事実
しかし、今をときめくアップルとビートルズの作ったレコード会社が
アップル・コアって向こうの人はリンゴ好きですねw
そんなことくらいしか思いつかんw
そんなことはどうでもいいんです
ビートルズといえば
かわぐちかいじの「僕はビートルズ」っていう漫画があるんですけど
まあ、面白くも無いので読まなくてもいいんですけど
発想が面白かったです
ある日本でビートルズカバーがメインのバンドメンバーが、息詰まってました。
それがひょんなことからメンバーが1960年にタイムスリップ。
そこで思いついたのが、
ビートルズのデビュー曲を先に発表すれば、
ビートルズが新しい曲を作るに違いないっていう思い。
なんやかんやで、ビートルズに先駆け曲を発表したら
発奮するとおもったビートルズが、意気消沈し解散してしまいますw
そこからまたなんやかんやあって
ビートルズはまた再結成することになって
結局、歴史は変ることがなかったという話なんですけどね。
興味があったら読んでみてw
わたしは、ビートルズの曲もう一回聴いてみようと思います。
ビートルズ!
50年前の10月5日に初めてレコードを出した日だそうですね。
ビートルズと私は、ほぼ同じ年月を生きてきたのですね。
感無量
しかし、私が中学高校の頃は、ビートルズを理解するには幼すぎたんだよなあ
キャンディーズやピンクレディー、松田聖子に夢中だったもんなあw
同世代でちょと大人の連中が、ビートルズの 赤盤、青盤とかの話をしてたのは
覚えてるんだけどねw
わしが、ビートルズの曲に始めて接したのは
音楽の教科書でのイエスタディだったか・・そんなレベル
洋楽に興味を持ち始めたときには、すでに解散し
かつ、1980年のあの事件がおきてましたからねえ・・
なもんで、語るほどの思い入れが無いのが事実
しかし、今をときめくアップルとビートルズの作ったレコード会社が
アップル・コアって向こうの人はリンゴ好きですねw
そんなことくらいしか思いつかんw
そんなことはどうでもいいんです
ビートルズといえば
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まあ、面白くも無いので読まなくてもいいんですけど
発想が面白かったです
ある日本でビートルズカバーがメインのバンドメンバーが、息詰まってました。
それがひょんなことからメンバーが1960年にタイムスリップ。
そこで思いついたのが、
ビートルズのデビュー曲を先に発表すれば、
ビートルズが新しい曲を作るに違いないっていう思い。
なんやかんやで、ビートルズに先駆け曲を発表したら
発奮するとおもったビートルズが、意気消沈し解散してしまいますw
そこからまたなんやかんやあって
ビートルズはまた再結成することになって
結局、歴史は変ることがなかったという話なんですけどね。
興味があったら読んでみてw
わたしは、ビートルズの曲もう一回聴いてみようと思います。
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杉原千畝という人物
ちょっと長いですが
是非お読みください。
杉原千畝は1900年の1月1日に岐阜で生まれました。
杉原は早稲田大学のときに生活が苦しいために
官費で留学生としてハルビンに行き
日露協会学校でロシア語を学び、
ロシア人宅に寄宿してロシア通となっていきます。
その間には朝鮮へ陸軍志願兵として入隊したこともあります。
その後、満州で外務省書記生や
ハルビンの日露協会学校の講師などもおこない、
外交部事務官としてソ連担当となりました。
ソ連とは北満州鉄道の譲渡交渉を担当し、
当時のお金で4億円以上の値引きをしたとして高い評価を受けました。
その後帰国し、
フィンランドのヘルシンキに赴任となり、
さらにその2年後、
今度はリトアニアのカウナスへ領事代理として転任しました。
このカウナスでの出来事が杉原の人生を変えました。
杉原は日本人もいない、
しかも日本とも一切かかわりのないこのリトアニアで、
ドイツとソ連の情報収集するスパイ任務をさせられていました。
しかしその後、そのリトアニアがソ連のものとなり、
ソ連から日本領事は出て行くよう要求されました。
杉原は急な閉館の準備で忙しくなりました。
当時ナチスは異常なほど、ユダヤ迫害し
ユダヤ人はナチスドイツから逃げまわります。
この時ドイツとソ連の間にポーランドがあり、
両国は共にそのポーランドに侵攻。
そしてドイツとソ連は不可侵条約を結び、
ポーランドはドイツ、リトアニアなどのバルト3国はソ連のものとなります。
そこにはナチスドイツから追われて逃げてきたユダヤ人が多くいました。
リトアニアが中立国だと考えていたユダヤ人ですが、
この地にもナチスドイツが攻めてきそうになりました。
ユダヤ人は生命の危機感を感じて、
次はどこに逃げたらよいかわけがわからなくなっていました。
逃げるところはもうないのです。
絶体絶命のユダヤ人は
ここでこういう話を聞きつけました。
「ドイツに併合されて行き場のないオランダ人が
オランダ領のキュラソー島へならユダヤ人も差別なく行ける」ということです。
ただし、
ユダヤ人がキュラソー島に行くには日本を経由しなければなりません。
キュラソービザと日本ビザが必要となりました。
ユダヤ人は杉原のいる日本領事館に
ビザ発給のお願いに殺到しました。
ユダヤ人は杉原にナチスの恐怖を何度も語り、
そして何とかして日本ビザを発行してくれるように
必死でお願いしました。
迫害されて殺されるのはわかっていましたから。
杉原の心は動きます。
しかし杉原もここから出て行かなければならない。
時間がない。
そしてビザ発行への問題も多い。
問題とは
ここリトアニアの出国許可、
日本の受入れ許可、
その間の通過する国の許可、
その費用など。
現実には不可能に近かった。
詰め寄るユダヤ人に杉原は
「あなた方は極めて同情すべき境遇にあります。
私は自分に与えられた権限や守るべき規定の範囲内で、
できる限りのことをしてあげたい。
しかし、人数があまりに多いので上司の外務大臣の了解を得るから
2,3日待っていて下さい」と言いました。
通過国のソ連はOKがでました。
費用も神戸のユダヤ人協会で何とかなる。
日本のビザ発給だけです。
しかし、外務省の答えはノーでした。
杉原は再度、特例でお願いしたが答えはノーでした。
当時日本はドイツ、イタリアと同盟を結ぶつもりなので、
ユダヤ人の受け入れは公(おおやけ)にできませんでした。
領事館を取り囲むユダヤ人は日増しに増える一方です。
杉原は悩み続け、妻の幸子に
「彼らの望む事をすれば、外務省を辞めさせられるかもしれない。
ドイツ軍にも捕まるかもしれない。君も幼い3人の子供も。それでもいいかな」
幸子は「かまいません」
ついに杉原は外務省の反対を押し切り、
独断でユダヤ人にビザを発給したのです。
自分や家族の身がどうなろうとも。
杉原はビザ発給のために
食事をする時間も、書き過ぎで手が動かなくなってきても、
最後に自分が汽車で出国するそのホームに群がる難民にも
書き続けました。
しかもそのビザ発行は無制限に発行しました。
有効期限が明らかに切れていようが、
偽造パスポートとわかっていても、
全くお金がないユダヤ人にも、
とにかくこのユダヤ人が生きていくために、
すべて発行しました。
ユダヤ人たちはビザは、
杉原が外務省と交渉して許可されたと思っていました。
独断だとは知りませんでした。
そしてユダヤ人難民はシベリアを越え、
ウラジオストックに着きました。
すでにここには外務省から難民ユダヤ人への杉原ビザの
検印捺印は駄目だと命じられていました。
しかし、ここウラジオストックの領事代理として根井がいました。
彼は杉原のハルビンの日露協会学校の同窓生でした。
根井はリトアニアでの杉原のビザ発行を知っていましたので、
外務省命令を無視してユダヤ難民15000人の全てにビザ発給をしました。
そしてついにユダヤ難民は敦賀に着き、神戸に着きました。
日本はこのユダヤ難民を手厚く保護しました。
あれだけ反対していた外務大臣の松岡洋右もユダヤ難民を擁護します。
ヨーロッパのようにユダヤ人に偏見がない日本人に対して
ユダヤ人たちは驚きと感謝でいっぱいでした。
しかしユダヤ難民たちの日本滞在は14日しかありません。
早く次の行き先を見つけなければなりません。
これも外務大臣の便宜で1ヶ月の許可になりました。
ユダヤ人たちは神戸からアメリカ、イスラエル、香港、
さらに日本の支配下の満州や上海へ旅立って行きました。
日本に帰国後、この件で外務省は杉原を退職させました。
外務省は命令違反をした杉原が許せなかったのです
この確執は、後年長く続くのです。
戦後、ユダヤ人たちは恩人である杉原を探し続けました。
実際に見つけるまでには28年かかったそうです。
それは「チウネ・スギハラ」でなく「センポ・スギハラ」
で探していたからでした。
チウネはユダヤ人には発音しにくいのでセンポと呼ばせていたからです。
昭和43年ソ連との貿易の仕事の間に一時日本に帰国していた杉原に
イスラエル大使館から一本の電話がありました。
不信に思った杉原でしたが、
そこで参事官と面会しました。
参事官は「私のことを覚えていますか?」と聞きましたが、
杉原には覚えのない知らない人物だったので
「申し訳ありませんが、」と答えたら、
参事官はボロボロになったビザを取り出し、
自然と溢れてくる涙を拭いもせず、
「あなたは私のことを忘れたかもしれませんが、
私たちは片時たりともあなたの事を忘れたことはありません、
28年間あなたのことを探していました。
やっと会えましたシンポ・スギハラ」
彼こそカウナスでユダヤ人代表の一人として杉原と交渉を行った
ユダヤ人だったのです。
翌年、昭和44年に杉原はイスラエルに招待されました。
出迎えたのはバルハフティック宗教大臣。
彼もカウナスでビザ発給の交渉を杉原とやったあのユダヤ人だった。
生きての再会を喜んだ二人でしたが、
バルハフティックはこのとき驚くべき事件の真相を知ることになります。
あの杉原ビザの発給が日本政府の許可もなく、
杉原が独断で外務省に逆らって発給したこと、
さらにそれが原因で杉原が外務省を辞職せざるを得なかったことです。
ユダヤ民族の命の恩人として、
永遠に語り継いでいかなければならない偉大な功績に対し、
杉原には申し訳ない気持ちでいっぱいでした。
バルハフティックはイスラエルでの
「自らの犠牲を顧みずにユダヤ人を助けてくれた異邦人に贈る」という
「ヤド・バシェム賞」の受賞選考で杉原を推薦し、
杉原は昭和60年にイスラエルから「ヤド・バシェム賞」を贈られました。
その時すでに杉原は病床の身であり、
夫人の幸子に
「私のしたことは外交官として間違っていたかもしれない。
しかし、私は頼ってきた人たちを見殺しにすることはできなかった」
と語ったそうです。
その年の暮れにはイスラエルに杉原の顕彰碑が建てられ、
式典には代理で息子が出席しました。
杉原はその様子を手紙で知らされ、
あるれる涙でいっぱいだったそうです。
スギハラに助けられたユダヤ人は6000人。
その翌年の昭和61年、杉原は86歳という人生を閉じました。
残念なことに日本の外務省は、杉原の死後も長年にわたり
「本省の命令を聞かなかった杉原は首で当りまえ」
というスタンスを崩さなかったのです。
しかし、1991年(平成3年)10月には、鈴木宗男・外務政務次官(当時)が
幸子夫人を招き、杉原副領事の人道的かつ勇気ある判断を高く評価し、
杉原副領事の行動を日本人として誇りに思っているとし、
併せて、半世紀にわたり外務省と杉原副領事の家族との間で意思の疎通を欠いていた無礼を謝罪しました。
ただこのときも、外務省内部にはこの謝罪を反対した根の深い敵意がありました。
そしてそれからも長い年月を費やし
本政府による公式の名誉回復が行われたのは、
21世紀も間近の2000年10月10日になってのことだったのです。
当時の外務大臣河野洋平による演説です
これまでに外務省と故杉原氏の御家族の皆様との間で、
色々御無礼があったこと、御名誉にかかわる意思の疎通が欠けていた点を、
外務大臣として、この機会に心からお詫び申しあげたいと存じます。
日本外交に携わる責任者として、外交政策の決定においては、いかなる場合も、
人道的な考慮は最も基本的な、また最も重要なことであると常々私は感じております。
故杉原氏は今から六十年前に、ナチスによるユダヤ人迫害という極限的な局面において
人道的かつ勇気のある判断をされることで、人道的考慮の大切さを示されました。
私は、このような素晴らしい先輩を持つことができたことを誇りに思う次第です。
死の前年、杉原はこう語ったと言います。
「あなたは私の動機を知りたいという。
それは実際に避難民と顔をつき合わせた者なら誰でもが持つ感情だと思う。
目に涙をためて懇願する彼らに、同情せずにはいられなかった。
避難民には老人も女もいた。
当時日本政府は一貫性のある方針を持っていなかった、と私は感じていた。
軍部指導者のある者はナチスの圧力に戦々恐々としていたし、
内務省の役人はただ興奮しているだけだった。
本国の関係者の意見は一致していなかった。
彼らとやり合うのは馬鹿げていると思った。
だから、返答を待つのはやめようと決心した。
いずれ誰かが苦情をいってくるのはわかっていた。 しかし、私自身これが正しいことだと考えた。 多くの人の命を救って、何が悪いのか。 人間性の精神、慈悲の心、そういった動機で、 私は困難な状況にあえて立ち向かっていった。」
ちょっと長いですが
是非お読みください。
杉原千畝は1900年の1月1日に岐阜で生まれました。
杉原は早稲田大学のときに生活が苦しいために
官費で留学生としてハルビンに行き
日露協会学校でロシア語を学び、
ロシア人宅に寄宿してロシア通となっていきます。
その間には朝鮮へ陸軍志願兵として入隊したこともあります。
その後、満州で外務省書記生や
ハルビンの日露協会学校の講師などもおこない、
外交部事務官としてソ連担当となりました。
ソ連とは北満州鉄道の譲渡交渉を担当し、
当時のお金で4億円以上の値引きをしたとして高い評価を受けました。
その後帰国し、
フィンランドのヘルシンキに赴任となり、
さらにその2年後、
今度はリトアニアのカウナスへ領事代理として転任しました。
このカウナスでの出来事が杉原の人生を変えました。
杉原は日本人もいない、
しかも日本とも一切かかわりのないこのリトアニアで、
ドイツとソ連の情報収集するスパイ任務をさせられていました。
しかしその後、そのリトアニアがソ連のものとなり、
ソ連から日本領事は出て行くよう要求されました。
杉原は急な閉館の準備で忙しくなりました。
当時ナチスは異常なほど、ユダヤ迫害し
ユダヤ人はナチスドイツから逃げまわります。
この時ドイツとソ連の間にポーランドがあり、
両国は共にそのポーランドに侵攻。
そしてドイツとソ連は不可侵条約を結び、
ポーランドはドイツ、リトアニアなどのバルト3国はソ連のものとなります。
そこにはナチスドイツから追われて逃げてきたユダヤ人が多くいました。
リトアニアが中立国だと考えていたユダヤ人ですが、
この地にもナチスドイツが攻めてきそうになりました。
ユダヤ人は生命の危機感を感じて、
次はどこに逃げたらよいかわけがわからなくなっていました。
逃げるところはもうないのです。
絶体絶命のユダヤ人は
ここでこういう話を聞きつけました。
「ドイツに併合されて行き場のないオランダ人が
オランダ領のキュラソー島へならユダヤ人も差別なく行ける」ということです。
ただし、
ユダヤ人がキュラソー島に行くには日本を経由しなければなりません。
キュラソービザと日本ビザが必要となりました。
ユダヤ人は杉原のいる日本領事館に
ビザ発給のお願いに殺到しました。
ユダヤ人は杉原にナチスの恐怖を何度も語り、
そして何とかして日本ビザを発行してくれるように
必死でお願いしました。
迫害されて殺されるのはわかっていましたから。
杉原の心は動きます。
しかし杉原もここから出て行かなければならない。
時間がない。
そしてビザ発行への問題も多い。
問題とは
ここリトアニアの出国許可、
日本の受入れ許可、
その間の通過する国の許可、
その費用など。
現実には不可能に近かった。
詰め寄るユダヤ人に杉原は
「あなた方は極めて同情すべき境遇にあります。
私は自分に与えられた権限や守るべき規定の範囲内で、
できる限りのことをしてあげたい。
しかし、人数があまりに多いので上司の外務大臣の了解を得るから
2,3日待っていて下さい」と言いました。
通過国のソ連はOKがでました。
費用も神戸のユダヤ人協会で何とかなる。
日本のビザ発給だけです。
しかし、外務省の答えはノーでした。
杉原は再度、特例でお願いしたが答えはノーでした。
当時日本はドイツ、イタリアと同盟を結ぶつもりなので、
ユダヤ人の受け入れは公(おおやけ)にできませんでした。
領事館を取り囲むユダヤ人は日増しに増える一方です。
杉原は悩み続け、妻の幸子に
「彼らの望む事をすれば、外務省を辞めさせられるかもしれない。
ドイツ軍にも捕まるかもしれない。君も幼い3人の子供も。それでもいいかな」
幸子は「かまいません」
ついに杉原は外務省の反対を押し切り、
独断でユダヤ人にビザを発給したのです。
自分や家族の身がどうなろうとも。
杉原はビザ発給のために
食事をする時間も、書き過ぎで手が動かなくなってきても、
最後に自分が汽車で出国するそのホームに群がる難民にも
書き続けました。
しかもそのビザ発行は無制限に発行しました。
有効期限が明らかに切れていようが、
偽造パスポートとわかっていても、
全くお金がないユダヤ人にも、
とにかくこのユダヤ人が生きていくために、
すべて発行しました。
ユダヤ人たちはビザは、
杉原が外務省と交渉して許可されたと思っていました。
独断だとは知りませんでした。
そしてユダヤ人難民はシベリアを越え、
ウラジオストックに着きました。
すでにここには外務省から難民ユダヤ人への杉原ビザの
検印捺印は駄目だと命じられていました。
しかし、ここウラジオストックの領事代理として根井がいました。
彼は杉原のハルビンの日露協会学校の同窓生でした。
根井はリトアニアでの杉原のビザ発行を知っていましたので、
外務省命令を無視してユダヤ難民15000人の全てにビザ発給をしました。
そしてついにユダヤ難民は敦賀に着き、神戸に着きました。
日本はこのユダヤ難民を手厚く保護しました。
あれだけ反対していた外務大臣の松岡洋右もユダヤ難民を擁護します。
ヨーロッパのようにユダヤ人に偏見がない日本人に対して
ユダヤ人たちは驚きと感謝でいっぱいでした。
しかしユダヤ難民たちの日本滞在は14日しかありません。
早く次の行き先を見つけなければなりません。
これも外務大臣の便宜で1ヶ月の許可になりました。
ユダヤ人たちは神戸からアメリカ、イスラエル、香港、
さらに日本の支配下の満州や上海へ旅立って行きました。
日本に帰国後、この件で外務省は杉原を退職させました。
外務省は命令違反をした杉原が許せなかったのです
この確執は、後年長く続くのです。
戦後、ユダヤ人たちは恩人である杉原を探し続けました。
実際に見つけるまでには28年かかったそうです。
それは「チウネ・スギハラ」でなく「センポ・スギハラ」
で探していたからでした。
チウネはユダヤ人には発音しにくいのでセンポと呼ばせていたからです。
昭和43年ソ連との貿易の仕事の間に一時日本に帰国していた杉原に
イスラエル大使館から一本の電話がありました。
不信に思った杉原でしたが、
そこで参事官と面会しました。
参事官は「私のことを覚えていますか?」と聞きましたが、
杉原には覚えのない知らない人物だったので
「申し訳ありませんが、」と答えたら、
参事官はボロボロになったビザを取り出し、
自然と溢れてくる涙を拭いもせず、
「あなたは私のことを忘れたかもしれませんが、
私たちは片時たりともあなたの事を忘れたことはありません、
28年間あなたのことを探していました。
やっと会えましたシンポ・スギハラ」
彼こそカウナスでユダヤ人代表の一人として杉原と交渉を行った
ユダヤ人だったのです。
翌年、昭和44年に杉原はイスラエルに招待されました。
出迎えたのはバルハフティック宗教大臣。
彼もカウナスでビザ発給の交渉を杉原とやったあのユダヤ人だった。
生きての再会を喜んだ二人でしたが、
バルハフティックはこのとき驚くべき事件の真相を知ることになります。
あの杉原ビザの発給が日本政府の許可もなく、
杉原が独断で外務省に逆らって発給したこと、
さらにそれが原因で杉原が外務省を辞職せざるを得なかったことです。
ユダヤ民族の命の恩人として、
永遠に語り継いでいかなければならない偉大な功績に対し、
杉原には申し訳ない気持ちでいっぱいでした。
バルハフティックはイスラエルでの
「自らの犠牲を顧みずにユダヤ人を助けてくれた異邦人に贈る」という
「ヤド・バシェム賞」の受賞選考で杉原を推薦し、
杉原は昭和60年にイスラエルから「ヤド・バシェム賞」を贈られました。
その時すでに杉原は病床の身であり、
夫人の幸子に
「私のしたことは外交官として間違っていたかもしれない。
しかし、私は頼ってきた人たちを見殺しにすることはできなかった」
と語ったそうです。
その年の暮れにはイスラエルに杉原の顕彰碑が建てられ、
式典には代理で息子が出席しました。
杉原はその様子を手紙で知らされ、
あるれる涙でいっぱいだったそうです。
スギハラに助けられたユダヤ人は6000人。
その翌年の昭和61年、杉原は86歳という人生を閉じました。
残念なことに日本の外務省は、杉原の死後も長年にわたり
「本省の命令を聞かなかった杉原は首で当りまえ」
というスタンスを崩さなかったのです。
しかし、1991年(平成3年)10月には、鈴木宗男・外務政務次官(当時)が
幸子夫人を招き、杉原副領事の人道的かつ勇気ある判断を高く評価し、
杉原副領事の行動を日本人として誇りに思っているとし、
併せて、半世紀にわたり外務省と杉原副領事の家族との間で意思の疎通を欠いていた無礼を謝罪しました。
ただこのときも、外務省内部にはこの謝罪を反対した根の深い敵意がありました。
そしてそれからも長い年月を費やし
本政府による公式の名誉回復が行われたのは、
21世紀も間近の2000年10月10日になってのことだったのです。
当時の外務大臣河野洋平による演説です
これまでに外務省と故杉原氏の御家族の皆様との間で、
色々御無礼があったこと、御名誉にかかわる意思の疎通が欠けていた点を、
外務大臣として、この機会に心からお詫び申しあげたいと存じます。
日本外交に携わる責任者として、外交政策の決定においては、いかなる場合も、
人道的な考慮は最も基本的な、また最も重要なことであると常々私は感じております。
故杉原氏は今から六十年前に、ナチスによるユダヤ人迫害という極限的な局面において
人道的かつ勇気のある判断をされることで、人道的考慮の大切さを示されました。
私は、このような素晴らしい先輩を持つことができたことを誇りに思う次第です。
死の前年、杉原はこう語ったと言います。
「あなたは私の動機を知りたいという。
それは実際に避難民と顔をつき合わせた者なら誰でもが持つ感情だと思う。
目に涙をためて懇願する彼らに、同情せずにはいられなかった。
避難民には老人も女もいた。
当時日本政府は一貫性のある方針を持っていなかった、と私は感じていた。
軍部指導者のある者はナチスの圧力に戦々恐々としていたし、
内務省の役人はただ興奮しているだけだった。
本国の関係者の意見は一致していなかった。
彼らとやり合うのは馬鹿げていると思った。
だから、返答を待つのはやめようと決心した。
いずれ誰かが苦情をいってくるのはわかっていた。 しかし、私自身これが正しいことだと考えた。 多くの人の命を救って、何が悪いのか。 人間性の精神、慈悲の心、そういった動機で、 私は困難な状況にあえて立ち向かっていった。」
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10月3日の日経春秋から
20年前。独立間もないボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボは、
激しい民族紛争の焦点となっていた。
砲弾や銃弾が飛び交い、街のあちこちが破壊される混乱のなか、
市内の図書館で保管されていた1冊の本が、行方不明になった。
「サラエボ・ハガダー」という。
ハガダーとはユダヤ教徒が過越(すぎこし)の祭りで読む冊子だそうだ。
14~15世紀に制作されたとされる「サラエボ・ハガダー」は、
その時代のハガダーとしては画期的な美しい挿絵入り。
人類の宝ともいうべき文化財だ。
図書館が砲撃を浴びているさなか、これを安全な場所に移して守り抜いた学芸員がいた。
イスラム教徒だった。
実は、この本をイスラム教徒が救ったのは、
この時が初めてではない。街がナチスの支配下にあった70年前。
ユダヤ人を目の敵にしていたナチスに奪われないよう、
保管していた博物館の学芸員が命をかけて隠した。
学芸員の名前はデルヴィシュ・コルクト。
持ち前のすぐれた語学力が、ナチスの手を逃れるのに役立った。
以上は、20年前の紛争のころに記者として現地にいた
ジェラルディン・ブルックスさんの記事によるところが大きい。
彼女によると、コルクトはナチスの迫害で家族をなくしたユダヤ人の娘を自宅にかくまい、
安全なところへ逃亡するのを助けたこともある。
宗教や民族の違いを超えた、人と文化への深い愛情に打たれる。
ここまで転載。
これ読んで、ふと思ったんですが、
しかしなぜ、ユダヤ人は欧州各国で嫌われているのでしょうか
簡単に言うと、ユダヤ教徒がイエス・キリストを殺害したのを
うらんでいるから。
2000年も前の話ですよ。根が深い。
そして2次大戦ナチス・ドイツがユダヤ人を迫害したのはなぜか?
その理由はいくつかあるそうです
宗教的理由により、多くのユダヤ人は兵役につかなかったためユダヤ人は
市民と認められることがすくなかった。
そのため孤立し、土地の取得などが難しく、
金融関係(銀行、金貸し)の職業に付くことが多く比較的裕福な暮らしをしていた。
金を持ってたんですね
そして、2次大戦下ドイツ国内の政情不安と景気悪化などによる国民の不満を解消するため、
また、金を取り上げるために
人種差別を理由としてスケープゴートにされたという話ですね。
それに先の宗教的な理由が加わり
600万人ものユダヤ人が迫害を受けたという。
なんともねえ。
なんでこんな話をかいたか?
2次大戦中、そのユダヤ人を救った日本人の話を思い出したから。
それは、次回の心なのだ
20年前。独立間もないボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボは、
激しい民族紛争の焦点となっていた。
砲弾や銃弾が飛び交い、街のあちこちが破壊される混乱のなか、
市内の図書館で保管されていた1冊の本が、行方不明になった。
「サラエボ・ハガダー」という。
ハガダーとはユダヤ教徒が過越(すぎこし)の祭りで読む冊子だそうだ。
14~15世紀に制作されたとされる「サラエボ・ハガダー」は、
その時代のハガダーとしては画期的な美しい挿絵入り。
人類の宝ともいうべき文化財だ。
図書館が砲撃を浴びているさなか、これを安全な場所に移して守り抜いた学芸員がいた。
イスラム教徒だった。
実は、この本をイスラム教徒が救ったのは、
この時が初めてではない。街がナチスの支配下にあった70年前。
ユダヤ人を目の敵にしていたナチスに奪われないよう、
保管していた博物館の学芸員が命をかけて隠した。
学芸員の名前はデルヴィシュ・コルクト。
持ち前のすぐれた語学力が、ナチスの手を逃れるのに役立った。
以上は、20年前の紛争のころに記者として現地にいた
ジェラルディン・ブルックスさんの記事によるところが大きい。
彼女によると、コルクトはナチスの迫害で家族をなくしたユダヤ人の娘を自宅にかくまい、
安全なところへ逃亡するのを助けたこともある。
宗教や民族の違いを超えた、人と文化への深い愛情に打たれる。
ここまで転載。
これ読んで、ふと思ったんですが、
しかしなぜ、ユダヤ人は欧州各国で嫌われているのでしょうか
簡単に言うと、ユダヤ教徒がイエス・キリストを殺害したのを
うらんでいるから。
2000年も前の話ですよ。根が深い。
そして2次大戦ナチス・ドイツがユダヤ人を迫害したのはなぜか?
その理由はいくつかあるそうです
宗教的理由により、多くのユダヤ人は兵役につかなかったためユダヤ人は
市民と認められることがすくなかった。
そのため孤立し、土地の取得などが難しく、
金融関係(銀行、金貸し)の職業に付くことが多く比較的裕福な暮らしをしていた。
金を持ってたんですね
そして、2次大戦下ドイツ国内の政情不安と景気悪化などによる国民の不満を解消するため、
また、金を取り上げるために
人種差別を理由としてスケープゴートにされたという話ですね。
それに先の宗教的な理由が加わり
600万人ものユダヤ人が迫害を受けたという。
なんともねえ。
なんでこんな話をかいたか?
2次大戦中、そのユダヤ人を救った日本人の話を思い出したから。
それは、次回の心なのだ
ユダヤ人とドイツ (講談社現代新書) | |
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LOVE BODY aki (ラブボディー アキ) | |
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ダッチワイフ
今日10月3日の笑っていいとものゲスト、
リリーフランキーさんが、「僕の彼女です」といって
ダッチワイフをスタジオに連れてきましたw。
この人、頭おかしいww
ダッチワイフってご存知?
直訳、オランダの妻なんすけど
ウィキで調べると
いわゆる性具の一種で、等身大の女性の形をした人形のこと。
主に男性の擬似性交用として使用するもの。だって。
ウィキの写真が秀逸!
一回見てみてw
オランダ人に失礼きわまりないw
オランダの人は知ってるのかね?
そんなことはどうでもいいんです
今、ダッチワイフって言わないんですね
ラブドールっていうそうです。
犬みたいな名前ですね
ラブドールレトリバーっていませんでした?
そんなことどうでもいいんです
めちゃくちゃ精巧に出来てますね。
本物とかわらないぞw。
っていうか、本物よりいいかも
友達が行った、十三のホテヘルで出てきた
とんでもないツワモノと比べたら
こっちの方がよっぽどマシかも・・
あれはきつかった・・
だって
タレ乳に3段腹に下半身デブの上、剛毛。
愛撫したら「んが!んが!」って
サザエさんの「さーて来週のサザエさんは」のあとの
饅頭を喉につめた時に発する「んがちゅっちゅ」のような
声を発するんですよ。
どう思います?
って友達から聞いた話です。あくまでも。
そんなのから比べると、黙ってるお人形の方がマシかもって思えますですねw。
ということで
ラブドールをレンタルする風俗もあるそうですね。
でもさすがの変態のわしもそれはちょっと二の足を踏むなあw
なんだかねえ
そんなことはどうでもいいんです。
昔、ダッチワイフには南極越冬隊の人が性欲処理に持っていったという
俗説がありました。
それを名づけて、南極1号w
南極1号の実体については不明ですが
まあ使ったことはないそうですw
そんなこともどうでもいいんです。
昔、裏ビデオの通信販売で
「サービスでダッチワイフ進呈」っていうのがあったので
意気揚々と買ったのです。
って当時わし、もう結婚してたのですが
なんであんなもんほしかったんだろう?
なんか興味があったのだw
結局届きませんでしたが、届かなくてよかった反面
だまされて、むかつきましたw。
そんなことどうでもいいんです。
現在のラブドールは、高価なシリコン製で
重量も30kgくらいあるそうですな。
何処かの山中に捨てられてたラブドールを発見した警察が
すわ!死体遺棄!と色めきたったという話もありました。
これからますます進歩していくんだろうなあ
いいのか悪いのかw
興味のある方は、ラブドールでググッてみて
田中真紀子と太田光
先日の、「スター感謝祭」見てたのですが
爆笑問題の太田が、いつもどおり悪ふざけしまくってて
見てて不愉快きわまり無かったんですけど
あれが、面白いとでも思ってるのでしょうか?
赤信号の渡辺リーダーに向かって
「宝塚女優とと合コンして、やったことある!」とか
暴言を吐いて、周りを当惑させてましたが
もう一種の基地外ですね。
まああれが面白いって思ってる人がいるから
テレビにでてられるんでしょうね
そんなことはどうでもいいんです
面白かったのが、生活保護不正需給を働いてた
河本に対して、
「世間は許しても、片山さつきは許してないぞ!」ってww
あれだけは面白かった。
生活保護不正需給って詐欺じゃないの?
金返して、殊勝な顔して反省してる風を装ってたら
罪に問われないのかねえ・・
いいねえ芸能人って・・
そんなことはどうでもいいんですけどね
嫌いな芸能人は、出てきたらチャンネル変えればすむんだけど
政治家は、そうは行かないねえ
なんか太田光に似ているエキセントリックな人物が入閣したねえ。
田中真紀子なんですけど、
自民党時代外相になったわいいものの、エキセントリックな言動で
更迭された人物ですよw
あれから10数年、彼女も成長したでしょう。なんていう奴いるけど
三つ子の魂百までw
治るわけ無いってw
つい先日も中国へ随行した秘書官みたいな
男性を虐げてる場面が放映されてましたもん
そういった人が、文部科学省でイジメ対策をやるんだもんな
面白いねえw
そんなことはどうでもいいんです
太田光にしても田中真紀子にしても
決して馬鹿ではない。頭はいいんだとおもうぞ
そんな頭のいい人がなぜ、エキセントリックな言動をしてしまうのか?
わたしも、なにも考えず人の悪口を言ったりして
顰蹙を良く買うのですが
昔、学校の先輩によく言われました
「お前は、カエルみたいな奴だなあ」って
意味は
カエルは、脊髄に電極を刺し電気を流すと
条件反射で、勝手に手足が動きます
脳で命令するのではなく勝手に動くのですw
その様子が、頭で考えず思ったことを条件反射で
口にしてしまう人間を指しての言葉なんですよねw
まさにその通り。
太田と田中真紀子ですが
太田は、紳介が司会だったらあんなことするかね?
田中真紀子も今度失言すれば後が無いのは十分わかってる。
ちゃんと考えることができるんですよね。
所詮計算です。
カエルにならないことを祈ってます
っていうか、舞い上がってカエルになって暴言吐いて
社会から消える方が面白いですけどね。
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内閣改造?!
内閣改造ってなんですか?
何のためにやるのかよくわからん・・
大臣をやるってことは、国会議員にとってはステイタスなんですよね
箔がつくってやつ。
今回の改造は、まさに箔付けと懲罰人事。
総裁選で野田一派に対抗した派閥の人間は誰も入閣してないんですよね
糞赤松ざまあです
昔、労組がらみであいつの選挙応援に借り出されて
夜遅くまで、禁止されてる個別訪問させられたり
休日まで、ちらし配りや、はがきの宛名書きまでさせられて
一銭のお金もくれませんでした。
ただでこき使いやがって、あの恨みは忘れんぞw
そんなことはどうでもいい
禄でもない人間でも、大臣経験者となると
名前も売れるし選挙で有利なんでしょうね。
でも反面、国会で矢面に立たされて
馬鹿な発言をして馬鹿さかげんをさらけ出してしまうという
恐れもあるしねえw諸刃の剣ですね。
そんなことはどうでもいいんです
2日の日経コラム春秋に面白い話が載ってました
どたばたの内閣改造はまるで「ポツダム少尉」っていう話。
「ポツダム少尉」なんて言葉初めて聴きました
意味は、8月にポツダム宣言を受諾し敗戦が確定した後
11月に軍を解体するまでの間に、恩給や手当ての増額を図るために
軍で最低の士官である、少尉に昇格した人間を指すんですって。
終戦のどさくさにまぎれて、多数の人が昇格したらしいw
解散前のどさくさにまぎれて
箔付けの大臣就任は、まさにポツダム大臣とでもいいましょうか
やることがこすいねえ
さすが民主党w
内閣改造ってなんですか?
何のためにやるのかよくわからん・・
大臣をやるってことは、国会議員にとってはステイタスなんですよね
箔がつくってやつ。
今回の改造は、まさに箔付けと懲罰人事。
総裁選で野田一派に対抗した派閥の人間は誰も入閣してないんですよね
糞赤松ざまあです
昔、労組がらみであいつの選挙応援に借り出されて
夜遅くまで、禁止されてる個別訪問させられたり
休日まで、ちらし配りや、はがきの宛名書きまでさせられて
一銭のお金もくれませんでした。
ただでこき使いやがって、あの恨みは忘れんぞw
そんなことはどうでもいい
禄でもない人間でも、大臣経験者となると
名前も売れるし選挙で有利なんでしょうね。
でも反面、国会で矢面に立たされて
馬鹿な発言をして馬鹿さかげんをさらけ出してしまうという
恐れもあるしねえw諸刃の剣ですね。
そんなことはどうでもいいんです
2日の日経コラム春秋に面白い話が載ってました
どたばたの内閣改造はまるで「ポツダム少尉」っていう話。
「ポツダム少尉」なんて言葉初めて聴きました
意味は、8月にポツダム宣言を受諾し敗戦が確定した後
11月に軍を解体するまでの間に、恩給や手当ての増額を図るために
軍で最低の士官である、少尉に昇格した人間を指すんですって。
終戦のどさくさにまぎれて、多数の人が昇格したらしいw
解散前のどさくさにまぎれて
箔付けの大臣就任は、まさにポツダム大臣とでもいいましょうか
やることがこすいねえ
さすが民主党w
ボーン・レガシー
ストーリー
前3作ボーンシリーズで語られる
CIAの秘密計画、トレッドストーンと平行し
進められているもっと高度な秘密の計画。
それは、ウイルス製剤によって作り上げられた
超人的な体力と精神力を持つ、最高の諜報員を育成するというもの。
冒頭、アラスカかどこかの極寒の深い山の中
訓練に励むアーロン。
アーロンはCIAの秘密諜報員で
ウイルス製剤を服用し人間離れした行動力をもってます。
しかしアーロンの訓練中、トレッドストーン計画が
発覚しCIA上層部は、外聞を恐れ関与する人間すべてを
抹消することに。
そんなことは露知らず、山中の連絡所を訪れた
アーロンは、無人飛行機による攻撃を受けます。
命からがら逃げ出したアーロンは
自分の命が狙われていることを悟ったアーロンは
自分の身を守るために、ウイルス製剤を手に入れようと
CIAの研究施設に勤めるマルタ博士を訪れますが
マルタ博士もCIAにより命を狙われていたのでした。
危機一髪でマルタ博士を救うアーロン。
2人は、ウイルス製剤を求めて、フィリピンの工場へ
向かい、それを悟ったCIAは、刺客をフィリピンへ送り込みます。
フィリピンの工場に忍び込むアーロンとマルタ。
追っ手の手を逃れ
無事に薬を手に入れることが出来るのか?
とまあこんな感じ。
感想
途中で眠くなった・・・
ここから先はネタばれ注意
前半は、アーロンがひげモジャで山篭りしてるシーンから
はじまるのですが、
唐突に場面が変り、湾岸での諜報活動のシーンがワンカット挟まってから
マルタ博士と邂逅するシーンにうつり
博士との逃避行の後半戦に移るのですが
前半のひげもじゃアーロンと後半のこざっぱりアーロンが
途中のワンカットのために別人に認識されちゃうんです。
わしの理解力が低いのか?おもったら
劇場出たところで
夫婦連れの旦那が、
「なあ、あの前半山にこもってた人どこいったん?」って嫁に聞いてて
ちょっと安心しました。
西洋人の顔って東洋人には見分け辛いのよねえw
それに、CIA上層部のばたばたが
全く何をやってるのか理解できなくて
途中で眠くなってしまった。
前半の山篭りアクションは、なかなかよかったけど
後半のバイクでの追いかけっこは
陳腐な感じでしたね。
まあ、ボーンシリーズとは一線を画した作品ですね。
同じ日にテレビで、「ボーン・スプレマシー」をやってたのですが
スプレマシーの方が数倍面白かった・・・
こっち観たほうが良いですよー
っていうか観てくださいw
↓
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ジェネオン・ユニバーサル |
友達がdocomoのスマホに変えるっちゅうから
ついていったら、docomoのギャラクシー推し異常ですね
黙ってたら、間違いなくギャラクシー買わされます。
「防水とか必要で無いですよね
必要でなかったら、ギャラクシーにしてください!」
ってこんな感じの言い方w
ちょっと大げさかもしれませんがw
しかし、わしの連れはエクスペリアって決めてたので
それはそれでいいのですが
なぜ、docomoが韓国製のギャラクシーを推すのか?
ちょっと興味があったので調べてみたら
正しいかどうかは別にして、面白い話がありました。
docomoは当初スマートフォンに懐疑的で
スマホがガラケーを凌駕することは無いであろうと
高をくくってたと。
なもんで、ソニー、富士通、NEC、京セラなどへの
スマホへの取組み・開発依頼がなされなかった。
しかし時代がかわり、アイフォンが日本を席巻したため
あわてて、アンドロイドで対抗しようとしたのですが
ときすでに遅し。
そのときに救いの手を差し伸べたのが、サムスンのギャラクシー
とソニー・エリクソンのエクスペリアの外国勢。
ということで、当初の段階からボタンの掛け違えで
海外勢にがっつり食い込まれたという話。
しかし、docomoにしても、動作の不安定な日本勢にこだわるよりも
世界的に安定したギャラクシーに頼るのが
順当だったのかもしれません。
加えてギャラクシーの販売価格は世界的には
日本の数分の1らしい。日本のスマホ価格で販売すれば
十分利益が出るそうですな。
またサムスンは、多分莫大なキックバックを餌に
docomoに販促を迫っているのでしょう。
しかし、販売目標に達しない場合のペナルティーはきついのでしょうね。
なもんで必死にギャラクシーを推しているといううがった見方。
もっと、深いところではいろいろな思惑があるのかもしれません
サムスンの製品だといってもその部品は日本製っていう話ですし
なかなか難しい話です。
こんな難しい話をするつもりは無かったのです
日経をよんでたら、サムスンは次期開発商品で
もっと画面の大きな新ギャラクシーを発売するとの計画を発表してましたね
いま以上大きくなったら、片手で操作できないぞw
富士通の新アローズなんかでも、4.6インチでしたっけ
もうね、女子のナプキンくらいの大きさですよ
これ以上大きくなったらどうなんの?
そのうち羽根つきが出るかもしれんね。
docomo GALAXY NEXUS SC-04D チタンシルバー SAMSUNG Android4.0搭載 スマートフォン 白ロム 携帯電話本体標準セット | |
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Samsung |