のんスケの‥行き当たりバッタリ!

ぐうたら人生を送ってきた私が、この歳になって感じる、喜び、幸せ、感動、時に怒りなどを、自由に書いていきたいと思います。

≪うかつにも‥知らなかったこと≫(2)

2013-08-25 18:39:26 | 日記

 日にちは忘れてしまったが、比較的最近の「ETV特集」で取り上げられた下記の番組は、私に強い衝撃を与えた。

             

 

 私は終戦直前に島根の田舎で生まれたが、私の田舎は幸いにも、直接空襲を受けることはなかった。

 もちろん、戦争中の食糧難・物資不足の話は、両親や兄姉からよく聞かされてきた。

 大きくなるにつれ、東京大空襲や大阪大空襲、沖縄戦や、広島・長崎への原爆投下による悲劇などについて、知識も得てきた。

 そして、日本は、戦争で被害を受けただけでなく、東南アジアの国々に対しては、加害者であったことも学んできた。

 私は、戦争の悲劇については、比較的よく知っている方だという、自負さえ持っていた。

 

 ところが‥

 ≪空襲被害者≫と言われる方たちが、戦後68年経つ今も、何の保証もなく傷を抱えたまま不自由な暮らしをされていることは、上の番組を見るま

で、全く知らなかった。

 

 下の写真は、名古屋大空襲で左目を失った、杉山千佐子さん。

                

 

 杉山さんは、左目がない不自由さにもめげず、いろんな仕事をされ、自立して生活してこられた。

 その彼女が41年前、仕事仲間の助言もあって、『全国戦災障害者連絡会』をつくられる。

 

 その会には、空襲で傷つき障害を負い、世間の差別の目にも耐えながら、貧しく苦しい生活をしてきた人たちが、続々と集まってきた。

 空襲で、手を、足を、あるいは両手・両足を失った人。

 目を、耳を、失った人。

 腕に、脚に、そして顔中に、ケロイドを負った人。

 

 杉山さんを中心として彼(女)らは、空襲被害者を救済する法の制定を求め、何度も何度も国会に請願を繰り返された。

 だが、法は整備されず、今に至るまで、なんの救済措置もとられなかった。

 

 そんな中で沢山の悲劇がうまれた。

 浜松大空襲で共に障害者となった二人が結婚、二人の子どもを授かるが、世間の白眼視もあって生活が成り立たず、一家心中を図ってしまったとい

う事件。

 顔中ケロイドを負い、多額の費用を出して30回も美容整形を受けるが、思うように良くならず、絶望して結局自殺してしまった女性。

 (ケロイドの治療が、医療として認められていれば、そんな不幸も起こらなかっただろうに‥。)

           

                (ケロイドに苦しみ、手術を繰り返した後、39歳で自殺した女性)

 

 空襲被害者の救済を拒否する、国の言い分はこうだ。

 「軍人・軍属と違って一般国民は、国との雇用関係がないから、保障する必要はない!」

 (そんなバカな!)

 当時軍は、空襲に苦しめられる国民に対して、「焼夷弾は決して怖いものではない!」と偽りの宣伝までして、あくまで本土でも、敵と戦うことを国民

に強要していた。

 そのために、焼夷弾の怖さを知らず、それから逃れることをせず、沢山の人が莫大な被害を受けたのだ。

                     

     

 

 

 そうであるにも拘わらず、戦後一切の救済を拒否してきた日本と言う国は、一体どんな国なんだろう?

 私は、憤りと悲しみを禁じえない。

 

 左目を失いながらも自立して生き、空襲被害者の救済を求めて運動の先頭に立ってきた、杉山さん。

 その杉山さんも、今ではもう、97歳。

 目だけでなく、体のアチコチが不自由になっておられる。

            

           (97歳の今も、不自由な体をおして訴え続けられる杉山さん)

 

 彼女が生きておられる間に、空襲被害者の救済に向けての道が、少しでも開けていくことを、テレビを見ながら強く願った。

 (願うだけではどうしようもないことは、十分知りつつ‥)

 

 

 

 

 

 

             

 

 

 

 


≪うかつにも‥知らなかったこと≫(1)

2013-08-25 15:30:12 | 日記

 8月は、過去の戦争と、シッカリ向き合わなければいけない月。

 今年も各局のテレビ番組が、戦争及び戦後の歩みについて、いろんな角度から取り上げていた。

 それらを見るなかで私は、今まで迂闊にも知らなかったことを、幾つか知ることとなった。

 

 一つは、8月9日に行われた『長崎平和祈念式典』の実況番組。

       

 

 

 祈念式典の中で、長崎・田上富久市長が≪長崎平和宣言≫として語られたこと。

               

 

 田上市長は、「日本政府に被爆国の原点に返ることを求めます。」と語られた後、次のような事実を述べられた。

 それによると…

 何と我が国は、今年4月ジュネーブで行われた『核不拡散条約(NPT)検討会議準備委員会』において、「人類はいかなる状況においても核兵器

を使うべきではない」という文書への賛同を拒否した、というのだ。

 

 何ということだろう!

 上述の事があったのが、4ヶ月も前の4月だったにもかかわらず、私はそんな重要なことを、8月9日の、その日まで全く知らなかった!

 新聞をほとんど読まず、ニュースの時間も、録画した番組を消化するのに使うことが多い私‥。

 それが、こんな結果をもたらしたのだ。 

 なんとも情けない!

 

 田上市長は、静かな口調ながらキッパリと、次のように言われた。

 「(上の文言が受けられないということは、)核兵器の使用は状況によっては認めるということを、日本政府は示したことになる。」

 「それは、二度と世界の誰にも被爆の経験をさせないという、被爆国の原点に反する

 

 私たちは、こんな政府を、先の二度の選挙で選んでしまったのだ‥。

 私は、自分の愚かな迂闊さを深く恥じ入るとともに、核のない世界に向けて、微力ながら何か行動していかなければならないと強く思った。