のんスケの‥行き当たりバッタリ!

ぐうたら人生を送ってきた私が、この歳になって感じる、喜び、幸せ、感動、時に怒りなどを、自由に書いていきたいと思います。

知らなかった! ≪昭和東南海地震≫ のこと。 ( 戦争は、事実を隠ぺいする!① )

2020-05-27 19:31:16 | 日記

(ずい分前になるが)NHKの番組『歴史秘話ヒストリア』を見るまで、私は≪昭和東南海地震≫なるものについて、その

事実さえ全く知らなかった。

番組に依ると、≪昭和東南海地震≫は、1944年(昭和19年)12月7日午後1時36分に、東南海地方を中心に発生した。

         

 

時は、第2次世界大戦のまっただ中、というか、既に日本の敗色が濃くなった時期であった。

       

 

 

東南海地震が起こった場所は、現在『南海トラフ巨大地震』が起こると予想されている区域と、ほぼ重なる。

       

 

 

そんな重大な震災のことを、なぜ私(だけでなく、多くの人々もそうではないかと思うのだが…)は、知らなかったのか!?

 

私は1944年・昭和19年11月の生まれ。

≪昭和東南海地震≫の直前に生まれたことになる。

私は幼い頃から戦争中のことを、両親や姉たちからよく聞かされてきた。

でも、昭和東南海地震のことは一度も聞いた記憶がないように思う。

それは何故か!?

一言で言うと、≪昭和東南海地震≫は、軍部によって“隠された”からなのだ。

なので『歴史秘話ヒストリア』のこの回のタイトルは、下のようになっている。

       

 

 

番組は、≪昭和東南海地震≫がどのようにして国民の目から“隠された”のか、その経過を、(それに抗って地震研究を

続け、後世に伝えようとした人々がいたことも、) 丹念に取材し報道してくれていた。

 

今回さらに驚かされたのは、問題の≪昭和東南海地震≫の前年には、M7.2の<鳥取地震>が起こっていたという

ことだ。

      

              1943年(昭和)18年9月10日発生

 

鳥取というと、私のふるさと・島根のお隣の県だ。

しかしその地震のことも、私は両親や姉たちから聞いたことはない。

      

私の個人的なことはさて置き、<鳥取地震>のことは、当初は新聞でも報道され、各地から義援金も集まり、復興も進ん

でいったそうだ。

       

 

 

しかし、その後の帝国議会で、大河内輝耕議員が鳥取地震について発言していた時、総理大臣・東条英機がその発言を

さえぎり、事実上の箝口令とも言える発言をしたのだそうだ。

             

 

 

その後、新聞報道や東大地震研究所に対して、活動の制限が始められる。

当時の日本の地震学はとても優秀だったそうだが、その研究所も陸軍に所属することにされ、地震に対する事実報道も

検閲を受けることになった。

     

 

                    

                          「新聞に請われるままに、鳥取地震のことを書いた。」

 

    

          「これが新聞に載ると、早速所長に呼ばれ、

 

            

                今後はこのようなことをしてはならぬ、とひどく叱られた。」

 

                      

                      「新聞雑誌への寄稿は所長があらかじめ検閲する、ということになってしまった。」

 

 

 

更に地震前に、当時<地震の神様>と言われた元帝国大学教授の今村明恒氏が、自身の論文の中で、遠州東南海

地域で30~40センチに及ぶ地盤の沈下が見られることを、報告した。

今村氏はさらに、江戸時代(安政)の巨大地震直前にも、このような地盤の沈下があったことを述べ、強く警鐘を鳴らした。

     

 

しかし、戦争遂行を優先する政府・軍部によって、今村氏の論文・警鐘は完全に黙殺された。

 

そんな中で、M7.9の巨大地震・≪昭和東南海地震≫は勃発したのだった。

昭和東南海地震は、地震そのものによる被害はもちろん、その後起こった津波によっても甚大な被害をもたらした。

      

 

 

地震の揺れが収まってしばらくして、各新聞社の電話が一斉に鳴った。

当時新聞の検閲をしていた、内務省からであった。

その内容とは…

 「災害現場の写真は、掲載してはならない。」

 「軍需工場、鉄道の被害など、戦力低下の推測につながる事柄を、掲載してはならない。」 だった。

こうして、国による東南海地震の隠ぺいが始まった。

 

そして地震翌日、災害現場の写真や被害の実情の掲載を禁止された各新聞社は、その一面にこぞって、軍服姿の昭和

天皇の写真を掲載し、戦意高揚の記事を大々的に載せたのだった。

一方、昭和東南海地震の記事は、被害状況には全く触れず、地震発生の事実だけをわずかに報じるのみだった。

 

地震の被害を受けた東海地方は、当時、軍需産業の一大拠点でもあった。

地震発生3日後、その軍需産業を指揮監督していた陸軍中将の岡田資氏のもとを、中央気象台長の藤原咲平氏が訪

れる。

      

              左…岡田中将   右…藤原氏

 

それは、今後も起こるに違いない余震を考慮して、地盤の弱い埋め立て地に建っている軍需産業の工場などに対して、

警戒を怠らないよう促すものだった。

          

 

 

しかしその翌日、愛知県庁で、軍事動員されていた学童に対して行った岡田中将の訓示のなかで、彼が結論的に述べた

のは、あろうことか、「(今回の地震は、)さしたることはない。」 だったのだ。

     

 

さらに続けて岡田氏は、「突貫工事を施工すべき!」と言って、学童たちを鼓舞までしている。

     

 

 

かくして≪昭和東南海地震≫は、戦争遂行勢力によって、完全に隠ぺいされてしまったのだった。

 

地震は、いつの時代でもどんな地域にあっても、一旦起これば私たちに、計り知れない苦しみと悲しみをもたらすものだ。

それをみんなの力を結集して、なんとか乗り越えていくのだ。

それなのに、その地震の被害の実態が、隠される。

そんな恐ろしいことが、かつてあったのだ。 

 

私はこの番組を見て、戦争がもたらす罪悪の、今まで知らなかった側面を、また一つ、思い知らされた気がした。

 

(※この番組では、もっと多くの大事な事実を明らかにしてくれていたが、私の力不足でそれをうまく文章にすることができ

 ませんでした。申し訳ありません!)