~2度目の渡仏~
1927年8月、もう一度パリの壁や広告を描きたいという強い思いから、佐伯は再びパリに戻って来た。
そして彼は、猛烈な勢いで制作を再開する。
以下は、そうして描いた作品の数々です。
「カフェ・タバ」 1927年
「広告(アン・ジュノ」 1927年
「街角の広告」 1927
「門の広告」 1927年
「裏町の広告」 1927年
「ガス灯と広告」 1927年
「レストラン(オテル・デュ・マルシェ)」 1927年
「広告貼り」 1927年
題名? 1927年
「場末の街」 1927年
「靴屋」 1927年 (佐伯には珍しく人物を描いている)
※1928年に入ると、結核が進行して身体の衰弱が進むが、佐伯の意欲は落ちることなく制作ペースはむしろ加速して
いったという。
下は、1928年1月に描いた2枚の作品。
「共同便所」 1928年1月
「工場」 1928年1月
≪新しい画題を求めて!(1928年2月)≫
パリを描くことをずっと自分の命題としてきた佐伯だが、1928年2月になって、パリを離れ、小さな村・モランで写生
旅行を行う。
当然のことながら、パリ時代の絵とは対象も描き方も変わっているが、色彩の使い方などには、佐伯独自のものも
あるように思う。
「モランの寺」 1928年
「モランの教会」 1928年
「モラン風景」 1928年
「村と丘」 1928年
「納屋」 1928年
「煉瓦焼」 1928年
≪最後の作品≫
モランからパリに戻った後の3月、風をこじらせた佐伯は床に就く日が続く。
そんな折、佐伯家に郵便を届けにやって来た郵便配達夫の佇まいに心惹かれた佐伯は、彼にモデルになってくれる
よう強く依頼し、描かせてもらうことになった。
折しも、モデルとして使ってくれないかと佐伯のもとを訪れたロシアの娘がいて、室内で描いたこの2人の人物画が、
佐伯にとって最後の作品となった。
「郵便配達夫」 1928年 「ロシアの少女」 1928年
上の2作品と前後して、佐伯には、わずかに体力が回復した時に戸外に出て描いた、2つの“扉の絵”がある。
それが、次の2作品。
「黄色いレストラン」 1928年
「扉」 1928年
※この4枚の絵が佐伯の絶筆ということになるのだけれど、私はこれらの絵の力強さに強い驚きを感じる。
これらの絵には、どこにも力を抜いたところが無い。
むしろ力が漲っている感じがする。
死を予感していただろう佐伯が、最後の力を振り絞って、一分の隙もなく塗り込め描いたであろう、これらの絵。
私は、これらの絵を見ながら、何とも切ない思いになる。
と同時に、佐伯の絵にかける強い思いを感じて、彼がいっそう好きになり、尊敬の念を強くした。
(佐伯はその年の8月16日、パリ郊外の病院で息を引き取った。30歳の早過ぎる死だった。)
※帰り道でのスナップ写真
葉っぱの緑と先端のオレンジ色が、可愛いらしく感じられた。
~帰りに立ち寄った阪神百貨店の外壁~
こんなに沢山花が植えられているとは!