今回の義綱城館訪問記は「観音寺城」をお送りします。
観音寺城、登る前からちょっと不安な情報が。
安土城の麓にある「城なび館」の職員に「これから観音寺城に行くんです」と言うと、「あそこは入口がわかりにくいので、お寺さんにちゃんと聞いたらいいよ」と言われました。そんなにわかりにくいんだろうか…。
写真の模型はJR安土駅徒歩30秒にある「安土城郭資料館」の展示です。写真にある右の山が観音寺城がある山で、左奥にある小さな山が安土城がある山。本来どちらが城に適しているかは一目瞭然なのだが
六角氏=室町時代からの守護=中世=山城の観音寺城
織田信長=安土桃山時代の戦国大名=近世=平山城
という違いが時代的な違いがあるのだろう。
観音寺城はその標高も432mと高く、防御性も優れており、中世五大山城(七尾城<能登・畠山氏>、春日山城<越後・上杉氏>、小谷城(近江・浅井氏>、月山富田城<石見・尼子氏>)の1つに数えられるほどの名城です。
観音寺城が名城であるのは知っていましたが、あまり情報がネットにないので今まで嫌煙していました。最近は特に有名になっている同じ滋賀県の小谷城とは知名度が違うような気がします。今回、観音寺城を訪問した事でイマイチ知名度が低い理由がわかりました。
今回私は、自家用車で訪問したため、麓から徒歩で登らず「観音正寺」を訪れる人のための有料林道(駐車場代含めて600円)を通って登城しました。ただ林道は車がすれ違うほどの道幅はなく、所々の待避所ですれ違う必要があり、私が訪れたのが平日だからよかったものの、休日で交通量が多いとかなり時間もかかるし運転技術もいるのではないかと思いました。観音正寺の駐車場からの参道の入口が上記写真です。
駐車場からの寺までの道はほぼ平坦です。
目加田屋敷あり?どこに?と思うと、
平坦な参道から結構山の斜面を降りたところ。見たところ手すりもなければ階段もない。しかも古井戸注意とあり、行くのを躊躇するが、あまり人が降りていない斜面を下って写真を撮ったのがこの写真。
う~ん、草木が生い茂っていてあまり屋敷感はありません。こんな感じが続くのか…とちょっとブルーに。
参道を歩いて観音正寺を目指すと、途中にこんな看板が…。「佐々木城107m?」私が目指しているのは観音寺城。寺が立てた看板がこんな単純な名前ミスをするだろうか?と思い、ひょっとする本城を守る付城のようなものかも…と思いスルー。とにかく案内が少なく、やはりこんな感じが続くのか…とブルー。
またもや参道の途中で「おくのいん(奥の院)」という案内が。階段の上に大きな岩のトンネルが…。これはもしや…「逆転裁判」の綾里真宵が倉院の里で修行した奥の院のようなもの??と違う思考ルーチンが入り登ろうかと一瞬思う…も階段に竹で通せんぼがあるので諦める…。
参道を通って、観音正寺到着。綺麗なお寺さんです。受付で入山料を払うとあったのですが…今日は平日のために、本堂で入山料をお支払いくださいと書いてある。
あっ!これは城に関わる重要な情報を発見。
綺麗な看板が立っている!
看板の目の前に車が止まっていたので、引きの写真は撮れませんでした…。でもこれだけ立派な看板があれば主郭部分はきっと丁寧に案内されているんだろう…とどこかで安心していました。
本堂へ行く途中に、城への入口を発見。しかし門が閉ざされている?もしや観音寺城は台風被害などで入れなくなったのでは?と一瞬考える。このままこの門を開いて行けば、本堂を通らずに行けてしまう。すると入山料を払う必要がない。でも…まてよ…本来は受付で入山料を支払うはず。とすると、城への登城は入山料の支払いを前提にしているのではないか…。まずは本堂に行って入山料を支払うことに。
本堂には住職らしき方がいて入山料500円を支払う。
「あの、観音寺城へ行きたいのですが、あの門が閉まっていた所が入口ですか?」
「はい、スーっとカギをあけてお入りください。」と合掌
対応の良さに気分良くがよくなり足取りが軽くなる。しかし、観音寺城のパンフレットなどもなく、安土城郭資料館でもらったブックレットも持ってくるのを忘れた。車まで取りに行くのは面倒だし時間がかかる。そこで、寺の入口にあった看板をカメラで撮り、それを目印に進むことに。
トビラを開けて進む…。
嫌な予感。あんまり整備されていない感じ…。寺の参道に対してかなり道も悪い。
観音寺城の案内も手書きの看板。ますます不安だが、本丸まで10分、一番通り大石垣まで20分という看板を信じて進む。
道はあまり良くないが、観音正寺から0.18km進んだところで本丸まで0.15kmの案内看板に一安心。
まっすぐ進むと「本丸」。左へ進むと屋敷(平井・落合・池田)とある。まずは本丸へ進む。
周囲を見渡すと大きい石がゴロゴロしている。
ここで簡単に観音寺城の歴史をおさらい。
観音寺が歴史に登場するのは南北朝時代。佐々木氏頼が観音寺に布陣したとあるが当時は砦程度のものであったと思われる。居住できるような城として整備されたのは、16世紀前半。1544(天文13)年に観音寺城を訪れた連歌師・谷宗牧は。山上の城の「御二階」の座敷の茶室に案内され、茶器の名品と共に饗応され、城から帰る時には秘蔵の古筆を贈られたと記録されている通り、防御が優れているだけでなく、居住スペースとしても、文化拠点としても機能していたと言える。
そんな観音寺城も1563(永禄6)年の当主・六角義治の時に起こったお家騒動で大名権力が揺らぎ、さらに1568(永禄11)年に織田信長に城を攻められると、正面から戦うことなく城を明け渡したと言われ、1579(天正7)年に安土城が完成すると、程近くの観音寺城は廃城となったと思われる。
そんな観音寺城。至る所に大きい石がゴロゴロしており、その石が石垣に利用されたと考えられる。しかも安土城築城には大量の石が石垣に利用された事から、廃城となる観音寺城の石を転用したとも考えられる。元々観音寺城山は石が豊富だったのであろう。
本丸に近づくにつれ、石垣が見える。それまでは石がゴロゴロしていただけだが、これは間違いなく石垣。
そして、ほどなくして本丸到着へ。イマイチ木々が多く位置がつかめない。また本丸の看板は、観音正寺にあったものと違い文字がかすれている。その看板によると1969(昭和44)年・1970(昭和45)年に発掘調査がされ整備されたという。最近の整備はあまり進んでいないようにも思う。と思ったその時…
えっ!?こんな石垣が残っているの!?とビックリ。本丸の裏虎口がこんなにハッキリと分かる遺構があるとは!このビックリはこの後も続く。
本丸北部の石垣。かなり立派に残っている。感動。
本丸跡から伝三ノ丸を伝って平井氏屋敷跡へ向かいます。ここにも大きな石がゴロゴロ。所々に石垣も見えます。かなり本格的な石垣の城と言うことが分かります。この城を明確に信長が整備したと言う記録はありません。というと、整備したのは六角氏?
本丸から平井氏屋敷跡にやってきました。
平井氏屋敷跡には昭和の発掘調査で庭園跡が見つかっているのですが、この荒れた感じでは見つけることができませんでした。庭園発見をメインに据えていただけにかなり残念。昭和の発掘の写真をみると池の周りの石組みとそれほど大きくない庭石なので、整備されずにあれると見えなくなるのは仕方ないと思いました。せめて看板で示して欲しいと思います。
写真では倒木で見づらいですが、平氏屋敷跡の奥に三段の石段と石垣で区別されている区画があります。ここが庭園かともおもったのですが、遺構はよくわかりませんでした。しかし、石垣の残り方がスゴイきれい。
で、次の写真が私が一番観音寺城で驚いたポイント。平井氏屋敷跡の虎口の写真3連発です。
↑平井氏屋敷から池田氏(落合氏)屋敷への出口。
↑池田氏(落合氏)屋敷側から平井氏屋敷の入口の虎口
↑池田氏屋敷の石垣
こんなに大きな石垣が組まれているとは、この方向からの敵の侵攻を想定していると思われます。つまり本丸の守りの最前線は平井氏屋敷だったということです。それだけ六角氏の中で平井氏が重臣だったということですね。
さて、平井氏屋敷跡から池田氏屋敷を通って大石垣まで向かいます。
こちらにもちょくちょく石垣が見られ、観音寺城内で頻繁に石垣が使われていたことがわかります。
この観音寺城の石垣は大きな石垣でかなり見応えがあります。群馬県の金山城の石垣もかなり緻密で素敵でしたが、この石垣も見に来た甲斐がありました。
大石垣を目指していたら、いつもまにか池田氏屋敷跡まで来ていたようです。この曲輪には大石垣方面ではない虎口があり、その石垣がこちらです。
その虎口の先はかなり荒れ果てているので行きませんでしたが、池田氏屋敷跡を取り囲む石垣を写真に撮りました。かなり立派な石垣です。
この虎口が池田氏屋敷の大石垣側の虎口です。石垣はありますが、先ほどの虎口よりは遺構は失われています。そしてここから大石垣まで5分というので、もちろん行ってみます。
この池田氏屋敷からとなりの安土山がハッキリ見えます。やはり安土城ができた時には、この観音寺城を完全に廃城にしないと防衛上問題がありそうです。
大石垣はどこにあるのか…よくわかりません。とても大きな石があったので、かつてここに大きな石垣があったのか…程度にしかその時には思いませんでした。
その崖下には、幟旗が見えました。そして時折東海道新幹線の走行音が聞こえます。観音寺城をアピールするために作ったのでしょう。その風景に満足した私は、大石垣を発見することができずに、私は観音寺城を後にしました。大きな石垣を見て興奮してもう大丈夫と満足してしまったことが原因である。
そして、これも安土城郭資料館で購入した『観音寺城跡 埋蔵文化財活用ブックレット11(近江の城郭6)』(滋賀県教育委員会)のブックレットみると、私は訪れた見た範囲は」観音寺城の4割程度しか見ていないことに気がついた。
やはりその原因は、観音寺城の整備があまり追いついていない(案内看板や倒木や草木の整理)という事情がある。例えば、観音正寺の参道途中にあった「佐々木城跡107m」の案内版は、観音寺城の付城ではなく、
この赤い部分であった。『観音寺城跡 埋蔵文化財活用ブックレット11(近江の城郭6)』によると、この部分の伝三国丸という曲輪には平井氏屋敷のような立派な石垣があると写真に載っていた。訪れなかったことを後悔。
さらに、合計3箇所の曲輪も見逃していた。1つは「大石垣」。私が幟旗をみて断念した先に、平井氏屋敷のような大きな石垣があった。2つ目は、大石垣の先にある伝木村丸にある埋門。埋まってしまったのか、最初から石垣として想定されていたのか大きな石垣穴が開いている。3つ目は、目加田屋敷の近くにあった伝布施淡路丸。大きな平坦な曲輪があったようだ。
このような見逃しを考えると、観音寺城はまたいつか再訪したいと思う。しかし、それにしてももっと看板を充実させ、整備をして欲しいと思った。そうすれば見逃すこともなかったのに…
と思って家に帰って安土城郭資料館で購入した『観音寺城物語2』の3ページを見ると「今、新幹線から見える石垣と幟旗は、平成30年にかけて5年近く、地元の企業やボランティアの方々と整備してきた風景である。」と書かれていた。
やっぱり出来るだけの地元の城愛好家によって整備はされているんだと実感。それにしてももうちょっと自治体の支援によって本格的に整備をしてほしい。観音寺城はおそらく観音正寺によって所有されている城なのだろう。やはりお寺が本業なので、そこまで城の整備にまで手も回らないのではないか。であるならば、県や市が公有地化して本格的な整備をしてほしい。
すると、もっと新幹線から見える幟旗を見てきた観光客が満足するのではないかと思った。これだけの立派な石垣があるのに、とてもその魅力を生かせていない観音寺城は、とにかくもったいない史跡であり、もっと魅力を伝えたい城だと私は思った。