今回は、1998(平成10)年、2008(平成20)年と訪問し、今回2020(令和2)年に3度目の訪問となった菅谷館の訪問記をお届けします。
3度目の訪問を決めた理由は「埼玉県立嵐山史跡の博物館」に行きたかったからです。
2019(令和元)年11月30日~2020(令和2)年2月16日まで同博物館で行われていた企画展「戦国大名は如何にして軍需を調達したか」を見たかったからです。
この企画展の最終日である2020(令和2)年2月16日に訪問すると、企画展の展示を担当した学芸員の解説付きという特典付きの日でした。その企画展の様子は、別の機会に譲るとして、菅谷館の訪問記を書きます。
菅谷館跡は「埼玉県立嵐山史跡の博物館」の駐車場と同じ位置にあります。たくさん車が駐車できるし、平地の居館なので見学しやすい史跡です。
菅谷館の古文書上での初見は、1187(文治3)年の鎌倉幕府が編纂した『吾妻鏡』のみに出てきます。それによると、畠山重忠が身に覚えの無い謀叛の疑いをかけられ、「武蔵国の菅谷館」に引きこもって身の潔白を訴えたというものです。1205(元久2)年にも「菅屋」という記述が見られ、菅谷のことかと思われます。また、1488(長享2)年に山内上杉と扇谷上杉の対立から「須賀谷原合戦」が起きたと言われ、その「須賀谷」は「菅谷」のことで、近くで合戦が行われたことが示されます。しかし、1187(文治3)年以降古文書で明確に城主が確定できる資料はないようです。しかし、ここで見ていくようにとても大きな館であるのは間違いありません。江戸時代に廃城になるために、図面が書き起こされますが、その図面と現在の形状が一致する珍しい城とも言われ、現代でも戦国時代の面影を色濃く残した城なのです。
では具体的に館を見ていきましょう。
駐車場にある館の全体図です。このプレートを見ると、どこが見るべきポイントなのかわかいますね。
ちなみに駐車場の入口は、館の搦手門だったことがわかります。門の幅は7mです。
では博物館がある「三ノ郭」から見ていきます。博物館の南の出入口を出ると、平面展示の掘立柱建物跡があります。
これは井戸跡だそうです。言われないとわからないですね。たんなる凹みだと思ってしまいます。三ノ郭では、建物跡が4棟、井戸跡が3ヶ所発掘調査で見つかったそうです。ちゃんと発掘調査がされているのが「三ノ郭」ですが、そこからは15世紀後半から16世紀前半の遺物が中心で、ここが鎌倉時代の遺構ではないだろうと思われます。
館から東側に来ました(この地図は南が上です)。この入口は公園としての入口で当時からあるものでは無いようです。
「二ノ郭」に簡単に侵入されないための空堀の道です。最初は土塁もたいした高さじゃないなぁと思いましたが・・・
写真は右に行くと「二ノ郭」へ。奥は「本郭」です。本郭の堀と土塁はかなりの高低差があります。
「ニノ郭」から「本郭」への分岐点です。
「本郭」の虎口です。この虎口は堀と土塁で守られています。
左が「二ノ郭」で右は「本郭」です。本郭の方が土塁が高く守りが堅い事がわかります。
では本郭に入ります。
本郭には鎌倉時代の畠山重忠の館があったと考えられるようです。が、本郭の発掘調査はされていません。
この石標ですが、なんと書いているかよくわかりません。その理由は後ろを見ると「昭和廿一年」の文字が。おそらく1946(昭和21)年に菅谷館の城址として建てた石碑なのでしょう。
本郭にある南口の虎口です。
ここから土塁→堀→土塁となって、「本郭」から一段低い「南郭」へとつながる。
南郭は東西に長い。
この「南郭」から「本郭」と「二ノ郭」に行けるので、防御を固めなければいけない場所。それゆえ、一段低く周りから攻撃がしやすい地形になっている。
この「南郭」からつながる町道が台風で崩落したため通行止めになっていました。
ここから「二ノ郭」に行きます。
「二ノ郭」への土塁は二段になっていました。ここから波状攻撃をしかけるためでしょう。本郭への防御も含めてかなり防御が硬いですね。これは鎌倉時代の畠山重忠が作った館をかなり改変していると言えます。おそらく、1488(長享2)年にあった「須賀谷原合戦」から考えると、山内上杉と扇谷上杉のどちらかの拠点だったのであろうと考えられます。
現在は「二ノ郭」にいます。写真の右には「本郭」があります。やはり二ノ郭より一段高いです。そして空堀もあるのでかなりの高低差があります。
そしてこの堀には「出枡形土塁」があります。「二ノ郭」に対して。「本郭」が凸状に突き出た土塁になっています。これにより、「二ノ郭」に侵攻してきた敵を効果的に攻撃することができます。
二ノ郭と三ノ郭の間にある「畠山重忠」の像がある場所です。
「畠山重忠」の像は菅谷館での一番の見所です。お見逃し無く。2008(平成20)年に撮った写真は、夏だったので木々が全体的に生い茂っていて写真も暗かったのですが、今回は2月の訪問なので、木々が落葉していて、写真が明るいです。
像のあるところから「三ノ郭」方面を見ています。水堀があります。おそらくこれは公園としてため池にしたので、本来は空堀だったと思われます。もっとも雨が降っていたときには水も堀にたまったかもしれませんね。
ため池があるのはこの辺りです。
「三ノ郭」です。博物館があるのが「三ノ郭」なので戻ってきました。と言ってもかなり広いので、三ノ郭の西側部分です。この写真の郭も土塁に囲まれています。
「三ノ郭」から「西郭」を見ています。しかし、写真から「西郭」がうかがえません。それは西郭が一段低くなっていることと、低い土塁を配すことで、視線を遮る効果があるようです。このような土塁をこの館跡では「蔀土塁」(しとみどるい)と読んでいます。
この「三ノ郭」と「西郭」は大きな堀があり、木橋が想定復元されています。ここが畠山重忠像に次ぐ見所です。そして三ノ郭側には門があったようです。正てん門(てんは常用漢字ではないので表示できず)という門もあったようです。かなり防御にすぐれた館です。
横から見た木橋です。1998(平成10)年にはもうありましたが、段々木が劣化してきています。ただし橋の肝心な部分は木に似せてコンクリートになっているので、八王子城の木橋のように「劣化したから通行止め」なんてことにはならなそうです。
これが「三ノ郭」と「西郭」の間の堀です。かなりの大きさです。大きな木が倒れています。おそらく2019(令和元)年の台風19号でかなり災害があったのでその影響かもしれません。
全体的に12年前の2008(平成20)年に訪れた時より多くの樹木が切られていました。もちろん木々が無い方が全体的な地形が見れて良いのですが、「景観のために木々を切った」なら良いですが、「災害で木々が倒れて切らざるを得なくなった」としたら辛いですね。
「西郭」の南側を見ています。堀はありますが土塁がありません。やは侵入される側の郭は攻撃しやすさを考えて配置されているようです。かなりの構造をもった館です。
「西郭」から外につながる道路です。私は3度目にもかかわらず駐車場の入口を間違ってしまい、館跡を大回りしてもう一度入りました。その時に、この西郭側の入口に駐車場がある事に気づきました。そして、文献によるとこの入口こそが「大手門」(表門)らしいです。駐車場の入口は搦手門(裏門)ですから、当然大手門もあるわけですが、まさかこんな小さな所が・・・。
では博物館に戻りましょう。
博物館の正面から入った所です。
ロビーでも企画展をやっており、この辺りの比企郡の展示をしていました。
そして菅谷館の模型もあります。ただこれは現代の姿の模型です。安土城や岐阜城でみたような復元CG模型があるといいなあと思います。
2008(平成20)年にこの博物館を訪れた時には、菅谷館のパンフレットなどはありませんでした。この12年で館跡の看板が新しくなり、2019(平成31)年3月には館跡のパンフレットも新刊されました。200円とお買い得です。ぜひ購入を!
そして3度目に訪れてわかったことがあります。
1度目の訪問の1998(平成10)年は、菅谷館では畠山重忠と復元木橋くらいしか興味がなく「これくらいしか残ってないのか?」と思っていました。
2度目の訪問の2008(平成20)年は、改めて見ると「堀や土塁がよく残っているだなあ」と中くらい感動しました。
3度目の訪問の2020(令和2)年は、そもそも2回も菅谷館に行っているので行かないつもりでした。しかし、その姿を見て見て回りたくなってしまいました。「こんなに深い空堀があるのか!」「土塁はかなりの高さだな・・・他の城跡とも比べるとかなりよく残っているなあ。相当遺構がよく残されているんだなあ」と大感動。
この差は何なのか?それは他の城を訪れたり、書籍で基礎知識を入れたりしたりする差。つまり「経験値」の差なのです。私の歴史の師匠である林光明様は「歴史は奥が深いから、どこまで極めても、自分はまだまだ知らないと気づかされ、やればやるほど謙虚になる。」とこたつ城主様におっしゃっていたと言っていました。私はこの言葉を直接聞いたわけではないのですが、今回3度目の菅谷館を訪問することにより、まさに「論より証拠」。22年前の私が如何に知識が無かったのか・・・と言うことを気づかされました。
これからも歴史をもっともっと学び続けたいな・・・と訪問記をまとめていて思いました・・・という感想をもって、2020(令和2)年の3度目の菅谷館訪問記を閉じたいと思います。