ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

『隅田川』について(その17)

2007-06-01 01:27:23 | 能楽
作物に向いて着座したシテは「今までは。。」とクドキを謡います。とても沈んだ調子で謡うのですが、次第に気持ちが高ぶっていって、「この下にこそあるらめや」とズカリと謡って地謡に渡すと、地謡は「さりとては人々」と強く謡い、シテはワキの方を見てから「この土を」と塚の下の方を見、「返して今一度」と両手で土を掘り返す型があり、そのまま塚を見上げ、「この世の姿を」とガクリと安座するのですが、これは膝が割れてしまうので、ぬえは「ガクリ」と見えるように下居にしています。「母に見せさせ給へや」と双ジオリをしますが、型附には「体を段々と前へ伏す」と書いてあります。双ジオリというのは体を前へ掛けるのは当たり前なのですが、この場面は能にある双ジオリの中でも本当に残酷な場面で、少しぐらい気持ちを突っ込んで演じてもそれほど違和感は生じないかもしれません。ぬえなどはまだまだ冒険はできないけれど、以前に大正時代生まれの大先輩がここでずっと体を倒して行って、ついには床と平行になるほど背を倒したのを見た時には本当に驚いたものです。それでも背中が曲がらない。。なんという強靱な肉体なのか。。

ついで地謡は静かに「諦念」を表す上歌を謡います。「残りても甲斐あるべきは空しくて、あるは甲斐なき箒木の、見えつ、隠れつ面影の、定めなき世の習ひ。人間愁ひの花盛り。無常の嵐音添ひ。生死長夜の月の影、不定の雲覆へり。げに目の前の浮世かな、げに目の前の浮世かな」。。すごい文章だ。。もしも十郎元雅が20台や30代前半にこれを書いたのならば。。どんな人生を送ってきたのだろう。想像するだに恐ろしい。

ワキはここまでの間に舟を漕ぐために脱いでいた素袍の右肩を入れ、後見(または地謡)から鉦鼓を受け取ります。地謡の上歌が終わると、ワキは脇座の前(または正先)に立ち、夜念仏の時節であることを告げます。このところ、ワキ宝生流では「すでに月出で川風もはや更け過ぐる夜念仏の時節なればと面々に、鉦鼓を鳴らし勧むれば」と謡いますが、福王流ではその前に「今は何と嘆きてもかひなき事。ただ念仏を御申し候ひて。後世を御弔ひ候へ」という文句が入ります。この文句はシテに向かって言っている言葉ですが、宝生流のようにその文句を言わないのも、シテとは別個に参集した人々がそれぞれに念仏を唱え始める様子を客観的に述べる事によって、かえってシテの孤独感が表現されて効果的だと思います。またこの場面では「鉦鼓を鳴らし」と福王流ではワキがひとつ鉦鼓を「チーン」と鳴らしますが、宝生流では鉦鼓を打つ型をするだけで、音は鳴らしません。このへんも流儀の違いがハッキリ現れるところで、宝生流の場合はシテが鉦鼓を打つまで音色を秘しておくのですね。

一方シテは念仏に加わる気力もなく、シオリをして我が子を失った悲しみに耐えています。これを見たワキは「うたてやな余の人多くましますとも、母の弔ひ給はんのこそ、亡者も喜び給ふべけれと」と母への念仏への参加を勧め、鉦鼓を母の左手に渡します。これを打つためのハンマー状の「撞木」は、やはりシテの右手に持たせる場合と、シテの右膝の前に置くのと、ふた通りの方法があります。ぬえはその後のシテの文句に「我が子のためと聞けばげに、この身も鳬鐘を取り上げて」とありますから、撞木は床に置いて頂いています。

鉦鼓は小くて平らな金属の鐘で、紐がつけられています。ぬえは『隅田川』の初演のとき浅草の仏具屋さんで、それらしいものを買ったのですが、それには三つの足がつけられていて、どうやら机の上に置いて打つらしい。その三本の足を金ノコで切り落として、ヤスリで磨いて、紐は100円ショップで買った化繊の紐を工夫して取り付けました。もっともこの紐は観世流では棒状にぐるぐる巻きにしておいて、鉦鼓ともども手の中に収まるようにしておくのですが、他流、とくに下掛りのシテ方では紐を解いてあって、鉦鼓をペンダントのように首からかけていますね。ぬえはかつてその写真を見てひどく驚いたのですが、先日、友枝昭世師の『角田川』がテレビで放映されて、はじめて理屈が分かりました。すなわち、喜多流では「この身も鳬鐘を取り上げて」ではなく「鳬鐘を首に掛け」という文句になっていて、そのために紐を自分の首に掛けるのです。面を掛けたシテが自分で鉦鼓を首に掛ける。。難しい型です。

さてシテは鉦鼓を取り上げて塚に向かって立ち上がり、ワキとともに念仏を唱えます。そして地謡の念仏「南無阿弥陀仏。。」が始まるのです。