ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

主人公がいない能~『春日龍神』について(その1)

2007-06-07 22:49:39 | 能楽
先日の『隅田川』からおよそ2週間という短い時間で、次なるシテの舞台、梅若研能会6月例会での『春日龍神』のお役が巡ってきます。いやはや、何とも忙しい。どうしても『隅田川』の稽古に比重がかかってしまうのは仕方のないことでしたが、それでも ぬえは切能が好き。この『春日龍神』も楽しみにしております。短い時間ではありますが、この曲について考察してみたいと思います。

まずは例によって舞台経過のご紹介から~。

囃子方と地謡が座着くと、すぐに「次第」が奏されてワキとワキツレが登場します。ワキは明恵上人(1173~1232)ですから、舞台は鎌倉時代前期ということになります。ワキツレは2~3人で、これは無名の明恵の従僧という役です。彼らは角帽子(すんぼうし)をかぶり、僧衣を表す水衣(能の独自の薄絹の装束)を着るという能の僧体の姿ではありますが、大口を穿いていて位の高い僧であることが示されます。さらにワキは着付に小格子厚板を着て、さらに位の高さを表します。従僧の着付は無地熨斗目。旅僧など位の低い僧の役の場合はワキであっても無地熨斗目を着流しに着て、そのうえに水衣を着ますので、大口・小格子厚板という、『春日龍神』のワキは相当に位が高い役であることを示しています。

舞台に立ち並んで向き合ったワキ・ワキツレ一同は「月の行方もそなたぞと、月の行方もそなたぞと、日の入る国を尋ねん」と「次第」謡を連吟し、地謡が同じ文句を低い調子で繰り返す「地取」の間にワキは正面を向き、ワキツレは下に控えます。ワキは「これは栂の尾の明恵法師にて候。われ入唐渡天の志あるにより、春日の明神に御暇乞ひ のため。只今参詣仕り候」と名宣リをし、ワキツレに向くとワキツレも立ち上がって再び一同は向き合い、「道行」を謡います。

「道行」は紀行文で、『春日龍神』の詞章は以下の通り。
「愛宕山。樒が原を外に見て。樒が原を外に見て。雲にならびの岡の松。緑の空も長閑なる。都の山を後に見て。これも南の都路や。奈良坂越えて三笠山。春日の里に着きにけり。春日の里に着きにけり」
すなわち明恵は京都から奈良に向かったのです。「道行」の定型の型として、後半部分「これも南の都路や」からワキのみ正面に向き数足歩んで再び立ち返る型をし、これをもって旅行が成し遂げられた事を表します。「道行」が済むとワキは正面に向き「急ぎ候ほどに。これははや春日の里に着きて候」と謡って舞台は奈良の春日大社に移りました。ワキツレに向いて「心静かに参詣申さうずるにて候」と問いかけるとワキツレも「尤もにて候」と受けて、一同は春日大社の境内にしばらく落ち着くことになりました。

一同が脇座へ行き着座すると、続いて「一声」が打ち出されます。切能の前シテの登場ですので位はサラリ目。しかし「本越」あるいは「半越」の「越之段」を入れるのが本来ですから、位取りはあると考えるべきで、「越之段」を省略して「一段」で登場するのが普通となった現代でも、神体としての前シテの位は尊重されるべきでしょう。

前シテの扮装は、面=小尉(または阿古父尉)、尉髪、翁烏帽子、小格子厚板、白大口、縷狩衣(両肩を上げる)、という、これまた神職の役の定型の扮装で、尉扇を腰に差し、『大仏供養』の後シテと同じく萩箒を右手に提げ持って登場します。

タイトルの「主人公がいない能」についての解説は追々に。。