ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

『隅田川』について(その20)

2007-06-02 17:10:55 | 能楽
『梅若権現御縁起』に現れる梅若丸の父母の名前が能『班女』と一致する、という問題は今回は考察しませんが。。

母親は。。シテは自殺しちゃうのかあ。。この『梅若権現御縁起』を読んだとき、能には書かれていない後日談の、これまたあまりに哀れな内容に驚きました。

ところが先日、ある地方での催しの際に楽屋でおワキと『隅田川』について話す機会があって、ぬえがこの『梅若権現御縁起』の結末について話すと、このおワキは「自殺する!?そうだったのか」とポンと膝を打ちました。

この大先輩のおワキの言った事がまた興味深かった。
何を納得したのかと思ったら、こういう事だったのです。

すなわち、『隅田川』では曲が終わってシテが退場するとき、どういうわけかワキやワキツレも同幕でシテと一緒に幕に退場するんです。じつは、ほとんどの能ではワキの退場は、シテよりずっと遅れて歩き出して、シテが幕に入った時に一度幕を下ろして、ワキやワキツレが幕にはいるときにはシテとは別に改めて幕を揚げて退場するのです。これを「別幕」と楽屋では呼ぶのですが、『隅田川』はワキとワキツレはシテと離れないように歩んで、いったん幕が上がったらシテに続いて三人とも一度に退場するのです。こちらは「同幕」と呼んでいます。

多くの能でシテとワキが別幕で退場するのは、なにもシテ一人に焦点を合わせる狙いがあるから、という理由ばかりではありません。多くのシテは幽霊であって、能が終わるとシテは異界に戻っていきます。一方、シテの出現を見届けるワキは旅僧であったり旅人であったり、ともかくほとんどの場合は現実の世界に住む人間です(唯一の例外が『邯鄲』の夢の中の勅使や官人)。つまり、シテとワキとは別な所に帰っていくのです。

またシテが現実の人間である場合でも、たとえば狂女能では最後の場面で母と子がめぐりあいます(これまた唯一の例外が『隅田川』)。このときは、はじめはワキが連れて登場した子方は最後にはワキから離れて幕へ引き、シテは舞台でトメ拍子を踏むのでそれよりは遅れるけれども、心は子方と同幕で引くつもりで、ワキはさらにそれより遅れて「別幕」で退場するのです。

『隅田川』では母子は再会することはないけれども、この後シテは我が子の後世を弔うためにこの土地に住み着いた、と考えるほどの材料はないわけで、お客さまには「失意のまま都に帰ったのかなあ。。」と想像される程度でしょう。だからシテとワキが「同幕」である必要も必然性もないのです。ぬえが話したこのおワキは「そうか。。『隅田川』のワキは、シテが心配でついて行くんだな。。」とおっしゃっていましたが、そうであるならば、「同幕」で引く、というだけで彼女の死を言外に予感させよう、という作者の意図が働いているのかも。。そうであっても、ここまでくると「想像できる人だけ彼女の行く末を想像してみてください」というような、甚だ希薄な演出意図と言わざるを得ません。長い歴史の中でこの曲の実演を重ねてきて、曲の演出を練り上げていくうちに、ふと、終曲部分にも演出を加え得る可能性が見つかって今のような形になったのか。。

いずれにしても、こんな細かい点にまで心を砕いて演出を考えた先人がいた事と、それを許す能の深さ、のような事を改めて考えた ぬえでした。

で、現代のシテの中にも、この退場の形式にまでこだわる方があるそうで、そのようなシテの頼みによってワキはわざわざ「別幕」で引いた事もあるそうです。一人でとぼとぼと引くことによってシテの孤独感を際だたせようとされたのですね。。その気持ちもよくわかる。さて、ぬえはどうしようかな。。

【了】

申合もまずは順調に終わり、今回の記念に新調した摺箔も出来上がりました。かなりキレイで嬉しい~。また師匠からは当日使う面として 河内家重作の「深井」を拝借させて頂きました。これまたかなり意味深な表情の面で、使うのは難しそうですが、挑戦しがいがある面でもあります。
。。でも、もう明日に迫って。ぬえは心臓バクバクです~(・_・、)

『隅田川』について(その19)

2007-06-02 02:17:31 | 能楽
墨田区の白髭橋の少し北側、まさに隅田川の河畔に「木母寺」(もくぼじ)というお寺があります。ここが現在「梅若丸伝説」とも言うべき物語にゆかりの寺で、境内には「梅若塚」があり、また寺宝として『梅若権現御縁起』という書物が伝わっています。「木母」とは「梅」の字を解体した名で、かつては「梅若寺」と呼ばれ、山号は梅柳山と号します。どこまでも梅若丸伝説に縁の深い寺ではありますが、現在は首都高速と巨大な堤防に遮られて隅田川を望むことはできず、また寺域もマンモス団地の陰で、お寺自体も近代的な鉄筋コンクリート造り。残念ながら往時の風情の片鱗さえ見ることはできません。

しかしながらこの寺に伝わる『梅若権現御縁起』は能『隅田川』にも深く関係し、とても興味深い書物です。以下、あらすじを記しておきます。

かつて都北白川に吉田少将これふさ、美濃国・野上の長者一人娘の花御せん、という夫婦があった。子宝に恵まれず、日吉社に参籠したところ、霊夢に童子が現れて「我が神身を化生して汝らが子となす」と告げ、やがて玉のような男児が生まれた。春待ち得たる梅が枝にめずらかに咲き出したる一花の心地がする、とて梅若丸と名付けられた子だったが、五歳の時に父少将は病のために世を去ってしまう。七歳のとき、母の勧めにより父が帰依した比叡山の月林寺に上った梅若丸は、仏典・詩歌・管弦にめきめきと才能を伸ばし三塔第一の児と呼ばれた。

ところが一方、同じ叡山の東門院にも松若という優れた稚児があり、世間の賞賛が梅若丸に集まると、松若をこの山第一と思う東門院の法師は梅若丸を闇討ちにしようと月林寺に押し寄せ、梅若丸はかろうじて寺を脱出した。頃は二月下旬、深山をさまよってようやく明け方に大津のあたりに出た梅若丸は陸奥の人商人・信夫の藤太と行き会う。藤太はこの稚児を陸奥へ連れ帰ろうと優しく接し、梅若丸はこれを情けある人と信じて北白川への道を問う。藤太は自分の向かう陸奥にも白川という地があることを幸いに梅若丸を騙し、道案内と称して同道した。途次に都まではこれほど遠くはないはずと泣き始めた梅若丸を藤太は縛り上げて、引っ立て引っ立て東国に向かい、ついに隅田川の河畔にたどりついた。

しかし習わぬ旅の疲れで梅若丸はこの地でにわかに病を得て弱り、今はひと歩みも運ぶに耐えずと伏してしまう。藤太はこれを陸奥へ連れ帰っても用に立たないと、憎々しげに梅若丸をうち捨てて下ってしまった。さてこの辺の人々は捨てられた梅若丸を見て由ある人と思い看病し、不思議なことには人の訪れない夜には二頭の猿が梅若丸の傍らに寄り添って彼を見守ったが、病は次第に重くなり、里人の問いに答えて国里や名前を告げ、母を恋しいと泣き、「尋ね来て問はば答へよみやこ鳥 すみだ河原の露と消えぬと」と辞世を残して三月十五日に息を引き取った。人々はたまたまこの地に来た出羽羽黒山の忠圓阿闍梨を導師として塚に葬り、柳を植えて標とした。

さて一方、梅若丸の母は叡山での争いのあと行方不明となった我が子を心配していたが、翌年になり姿格好の似た稚児を人商人が連れ去ったと聞き及んで、一人狂女の姿に身をやつしてその跡を追った。遠く隅田川の河畔に至り、業平の歌のように我が子を恋しく思いながら旅客とともに渡し船に乗った。このとき母は対岸に人が集まって念仏を唱えるのを認めて船頭に問うと、船頭はこの狂女ひとりが念仏の声に心をつけて問うとは優しい者かなと、この地で死んだ稚児の事、今日が一周忌に当たり人々が大念仏を唱えるのだ、と明かす。母は声をあげて船中に泣き伏してしまった。対岸に着いた舟を下りた母は群衆をかき分けて塚に至ると、村人たちも事情を知って念仏を勧める。その夜更け、人々の念仏に唱和する稚児の声が聞こえてくる。人々もこれを驚き、母一人での念仏を勧めると、不思議や標の柳の陰に梅若丸が現れる。抱き取ろうとする母だったが我が子は幻のように消えつ現れつするばかり。やがて我が子の姿は消え、母は一人残された。

翌日、忠圓阿闍梨を訪れた母は我が子の回向を頼み、阿闍梨は同情した村人の協力を得て小さな堂を建て、これが後に梅若寺となった。母はこの堂に一人我が子を弔う日々が続いたが、やがて父・少将殿や梅若丸とひとつ蓮の縁を急がんと思い立つようになった。すでに隅田川のほとりに立った母だったが、この川に身を投げてはいずこの海まで流されるかわからない、と考え直し、我が子の墓に近い底なしの池に臨むと、わが姿を池に映し「かくばかり我が面影は変はりけり 浅茅が池の水鏡見て」と詠んで身を投げた。忠圓阿闍梨はこれを聞いて驚き、死骸を捜し出して弔おうと人々に頼んで竿をさし入れて捜したが、ついに死骸は見つからなかった。

ところがそれから三日目に不思議な事が起こった。この池の主とも思える大きな美しい亀が母の死骸を甲羅の上に乗せて池の中から浮かび上がり、岸に死骸を下ろし、土をかけると再び池の中に消え去ったのである。希有な事と阿闍梨はそこにも堂を建て、これが後に妙亀大明神社となった。また母が入水した池は鏡が池と言われるようになり、梅若丸自身も山王権現と現れ、衆生を利益した。

『隅田川』について(その18)

2007-06-02 00:37:57 | 能楽
建長寺巨福能まで、もう当日まで2日を残すのみとなりました。ぬえにとっても名誉の催しなので、万全の体勢で臨みたいと思っております。おかげさまでチケットは発売直後に売り切れとなり、インターネットで宣伝した効果か、ぬえ宛にも50枚を超えるお申し込みがありました。

ところが。。残念なお知らせもあります。巨福能に向けて稽古を積んできた子方が、昨日より体調を崩し、本日予定された申合に参加できなくなってしまって。。従いまして、当日の出演も不可能となり、急遽チビぬえが『隅田川』の子方を代演する事となりました。ぬえの心も張り裂けてしまった。。でも、催しに失敗は許されません。幸いチビぬえはこれまでに4度『隅田川』の子方を勤めたことがあり、また今回も万が一のためのバックアップとして子方の稽古はつけてありました。本日の申合も無事に勤めることができ、それでも急遽の出演なので明日も稽古を続けて万全を期します。関係各位には多大なご迷惑をお掛けしました事をお詫び申し上げます。m(__)m


さて、念仏の中ではシテは鉦鼓を打ちますが、これは大鼓が打ったあとに打つのです。うまく鳴れば効果は絶大なのですが、意外に鉦鼓の真ん中に撞木を打ち付けるのは難しいですけれども。

念仏の合間にシテは正面を向いて謡うところが二度あります。「隅田川原の波風も声立て添へて」と「名にし負はば、都鳥も音を添えて」で、最初の時は撞木でサシて心持ちをし、再び作物に向いて地謡の中で鉦鼓を打つ準備をし、二度目は正面に向いたままで謡って、鉦鼓も正面を向いたまま。このとき地謡の念仏に子方が唱和します。正面を向いたまま鉦鼓を打つシテは、それに気づいてだんだんと体を作物に向けて、最後は鉦鼓を打つことを忘れて作物を凝視し、ワキに向いて「なうなう今の念仏のうちにまさしく我が子の声の聞こえ候。この塚の内にてありげに候よ」と興奮して言い、ワキもそれを認めて母ひとりで念仏を唱えるよう勧めます。

「いまひと声こそ聞かまほしけれ、南無阿弥陀仏。。」と作物の前に跪いて、もどかしげに鉦鼓を打ちながら塚に問いかける母。やがて子方の声が響くと、その姿が幻のように現れます。子方は全身が白ずくめ、すなわち死に装束で、頭だけが黒頭をかぶっています。「あれは我が子か」「母にてましますか」と声を掛け合う母子。しかし我が子に抱きつこうとするその手は空しく空を切ります。シオリながらとぼとぼと常座の方へ向かう母の前に、再び現れる我が子。しかし今度は両手で抱き取ろうとする母の手も、幻のような我が子には届きません。力なく正面を向く母の目には、東雲の空がほのぼのと明けてくるのが映り、我が子の塚を見れば、ただ春の草が茫々と風になびくのみでした。

このところ、本来の型は「我が子と見えしは塚の上の草」と面を下にトリながら塚に向き、「茫々としただ標ばかりの」と塚を下から見上げて小さく面をツカヒ、「浅茅が原となるこそ哀れなりけれ」と正へ向いてシオリながら跡へ下がりシオリ返シながら右ウケて二足ツメてトメる事になっていますが、近来は工夫で塚に抱きつく型をする事も多く、今回は ぬえも『隅田川』を勤めるのは二度目ですので、その型で勤めさせて頂く事と致しました。

このところ、自分の工夫では塚に抱きついてそのまま崩れるように膝をついてシオリ、それからシオリ返シをしながら斜め正面に向いてトメるつもりだったのですが、師匠から「作物に寄り添ったまま終わるのは、どうも絵づらとして良くないな。。」とアドバイスを頂き、次に、膝をついてから立ちあがり、少し下がりながらシオリ、シオリ返シをしながら作物に向いたままツメたところ、今度も「作物にツメ足をする事はあり得ない」と言われて、今日、師匠と相談のうえ、丸く下がりながら正面に向いてシオリ、シオリ返シは右ウケて、すなわち作物から顔を背けるようにしてツメる型とする事になりました。おそらく塚に抱きつく型をする多くの演者と同じやり方になったのだと思います。

それにしても。。このあまりにも悲しい終曲部では、大鼓のお流儀によってはトメの合頭を打たないやり方もあるのです。その場合は地謡がフェードアウトして終わり、笛だけが少し余韻を残す事になります。今回はそれにも挑戦したかったのですが、やはりまだ立場上僭越で、三度目にはやってみたいなあ。ただ、今回はお笛が森田流なので、大小の合頭のあとに「丁々。。」と吹く、あの独特の譜を残して頂くつもりでおります。

なんにせよ、あと2日。。これでとりあえず駆け足になってしまった『隅田川』の解説を終わりますが、明日はこの曲の本説と関係の深い「梅若丸伝説」について書いておこうと思います。