『梅若権現御縁起』に現れる梅若丸の父母の名前が能『班女』と一致する、という問題は今回は考察しませんが。。
母親は。。シテは自殺しちゃうのかあ。。この『梅若権現御縁起』を読んだとき、能には書かれていない後日談の、これまたあまりに哀れな内容に驚きました。
ところが先日、ある地方での催しの際に楽屋でおワキと『隅田川』について話す機会があって、ぬえがこの『梅若権現御縁起』の結末について話すと、このおワキは「自殺する!?そうだったのか」とポンと膝を打ちました。
この大先輩のおワキの言った事がまた興味深かった。
何を納得したのかと思ったら、こういう事だったのです。
すなわち、『隅田川』では曲が終わってシテが退場するとき、どういうわけかワキやワキツレも同幕でシテと一緒に幕に退場するんです。じつは、ほとんどの能ではワキの退場は、シテよりずっと遅れて歩き出して、シテが幕に入った時に一度幕を下ろして、ワキやワキツレが幕にはいるときにはシテとは別に改めて幕を揚げて退場するのです。これを「別幕」と楽屋では呼ぶのですが、『隅田川』はワキとワキツレはシテと離れないように歩んで、いったん幕が上がったらシテに続いて三人とも一度に退場するのです。こちらは「同幕」と呼んでいます。
多くの能でシテとワキが別幕で退場するのは、なにもシテ一人に焦点を合わせる狙いがあるから、という理由ばかりではありません。多くのシテは幽霊であって、能が終わるとシテは異界に戻っていきます。一方、シテの出現を見届けるワキは旅僧であったり旅人であったり、ともかくほとんどの場合は現実の世界に住む人間です(唯一の例外が『邯鄲』の夢の中の勅使や官人)。つまり、シテとワキとは別な所に帰っていくのです。
またシテが現実の人間である場合でも、たとえば狂女能では最後の場面で母と子がめぐりあいます(これまた唯一の例外が『隅田川』)。このときは、はじめはワキが連れて登場した子方は最後にはワキから離れて幕へ引き、シテは舞台でトメ拍子を踏むのでそれよりは遅れるけれども、心は子方と同幕で引くつもりで、ワキはさらにそれより遅れて「別幕」で退場するのです。
『隅田川』では母子は再会することはないけれども、この後シテは我が子の後世を弔うためにこの土地に住み着いた、と考えるほどの材料はないわけで、お客さまには「失意のまま都に帰ったのかなあ。。」と想像される程度でしょう。だからシテとワキが「同幕」である必要も必然性もないのです。ぬえが話したこのおワキは「そうか。。『隅田川』のワキは、シテが心配でついて行くんだな。。」とおっしゃっていましたが、そうであるならば、「同幕」で引く、というだけで彼女の死を言外に予感させよう、という作者の意図が働いているのかも。。そうであっても、ここまでくると「想像できる人だけ彼女の行く末を想像してみてください」というような、甚だ希薄な演出意図と言わざるを得ません。長い歴史の中でこの曲の実演を重ねてきて、曲の演出を練り上げていくうちに、ふと、終曲部分にも演出を加え得る可能性が見つかって今のような形になったのか。。
いずれにしても、こんな細かい点にまで心を砕いて演出を考えた先人がいた事と、それを許す能の深さ、のような事を改めて考えた ぬえでした。
で、現代のシテの中にも、この退場の形式にまでこだわる方があるそうで、そのようなシテの頼みによってワキはわざわざ「別幕」で引いた事もあるそうです。一人でとぼとぼと引くことによってシテの孤独感を際だたせようとされたのですね。。その気持ちもよくわかる。さて、ぬえはどうしようかな。。
【了】
申合もまずは順調に終わり、今回の記念に新調した摺箔も出来上がりました。かなりキレイで嬉しい~。また師匠からは当日使う面として 河内家重作の「深井」を拝借させて頂きました。これまたかなり意味深な表情の面で、使うのは難しそうですが、挑戦しがいがある面でもあります。
。。でも、もう明日に迫って。ぬえは心臓バクバクです~(・_・、)
母親は。。シテは自殺しちゃうのかあ。。この『梅若権現御縁起』を読んだとき、能には書かれていない後日談の、これまたあまりに哀れな内容に驚きました。
ところが先日、ある地方での催しの際に楽屋でおワキと『隅田川』について話す機会があって、ぬえがこの『梅若権現御縁起』の結末について話すと、このおワキは「自殺する!?そうだったのか」とポンと膝を打ちました。
この大先輩のおワキの言った事がまた興味深かった。
何を納得したのかと思ったら、こういう事だったのです。
すなわち、『隅田川』では曲が終わってシテが退場するとき、どういうわけかワキやワキツレも同幕でシテと一緒に幕に退場するんです。じつは、ほとんどの能ではワキの退場は、シテよりずっと遅れて歩き出して、シテが幕に入った時に一度幕を下ろして、ワキやワキツレが幕にはいるときにはシテとは別に改めて幕を揚げて退場するのです。これを「別幕」と楽屋では呼ぶのですが、『隅田川』はワキとワキツレはシテと離れないように歩んで、いったん幕が上がったらシテに続いて三人とも一度に退場するのです。こちらは「同幕」と呼んでいます。
多くの能でシテとワキが別幕で退場するのは、なにもシテ一人に焦点を合わせる狙いがあるから、という理由ばかりではありません。多くのシテは幽霊であって、能が終わるとシテは異界に戻っていきます。一方、シテの出現を見届けるワキは旅僧であったり旅人であったり、ともかくほとんどの場合は現実の世界に住む人間です(唯一の例外が『邯鄲』の夢の中の勅使や官人)。つまり、シテとワキとは別な所に帰っていくのです。
またシテが現実の人間である場合でも、たとえば狂女能では最後の場面で母と子がめぐりあいます(これまた唯一の例外が『隅田川』)。このときは、はじめはワキが連れて登場した子方は最後にはワキから離れて幕へ引き、シテは舞台でトメ拍子を踏むのでそれよりは遅れるけれども、心は子方と同幕で引くつもりで、ワキはさらにそれより遅れて「別幕」で退場するのです。
『隅田川』では母子は再会することはないけれども、この後シテは我が子の後世を弔うためにこの土地に住み着いた、と考えるほどの材料はないわけで、お客さまには「失意のまま都に帰ったのかなあ。。」と想像される程度でしょう。だからシテとワキが「同幕」である必要も必然性もないのです。ぬえが話したこのおワキは「そうか。。『隅田川』のワキは、シテが心配でついて行くんだな。。」とおっしゃっていましたが、そうであるならば、「同幕」で引く、というだけで彼女の死を言外に予感させよう、という作者の意図が働いているのかも。。そうであっても、ここまでくると「想像できる人だけ彼女の行く末を想像してみてください」というような、甚だ希薄な演出意図と言わざるを得ません。長い歴史の中でこの曲の実演を重ねてきて、曲の演出を練り上げていくうちに、ふと、終曲部分にも演出を加え得る可能性が見つかって今のような形になったのか。。
いずれにしても、こんな細かい点にまで心を砕いて演出を考えた先人がいた事と、それを許す能の深さ、のような事を改めて考えた ぬえでした。
で、現代のシテの中にも、この退場の形式にまでこだわる方があるそうで、そのようなシテの頼みによってワキはわざわざ「別幕」で引いた事もあるそうです。一人でとぼとぼと引くことによってシテの孤独感を際だたせようとされたのですね。。その気持ちもよくわかる。さて、ぬえはどうしようかな。。
【了】
申合もまずは順調に終わり、今回の記念に新調した摺箔も出来上がりました。かなりキレイで嬉しい~。また師匠からは当日使う面として 河内家重作の「深井」を拝借させて頂きました。これまたかなり意味深な表情の面で、使うのは難しそうですが、挑戦しがいがある面でもあります。
。。でも、もう明日に迫って。ぬえは心臓バクバクです~(・_・、)