ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

主人公がいない能~『春日龍神』について(その5)

2007-06-15 01:16:20 | 能楽
シテが「しかるに入唐渡天と言つぱ。仏法流布の名を留めし」と謡い出すところから始まるサシ~くせにかけては、仏法の故郷インドの霊地がいまこの春日野の地に遷された謂われが語られます。シテの型としてはサシのトメ、上羽の前、クセドメの三箇所でワキと向き合うのみ。居グセの定型です。型がないので今回は語釈を中心に。

シテ「しかるに入唐渡天と言つぱ。仏法流布の名を留めし。地謡「古跡を尋ねんためぞかし。天台山を拝むべくは。比叡山に参るべし。五台山の望みあらば。吉野筑波を拝すべし。シテ「昔は霊鷲山。地謡「今は衆生を度せんとて。大明神と示現しこの山に宮居し給へば。シテ「すなはち鷲の御山とも。地謡「春日の御山を拝むべし
 「我を知れ。釈迦牟尼仏世に出でて。さやけき月の。世を照らすとはの。ご神詠もあらたなり。しかれば誓ひある。慈悲万行の神徳の。迷ひを照らす故なれや。小機の衆生の益なきを。悲しみ給ふ御姿。瓔珞細なんの衣を脱ぎ。麁弊の散衣を着しつつ。四諦の御法を説き給ひし。鹿野苑も此処なれや。春日野に起き臥すは鹿の苑ならずや
シテ「そのほか当社の有様の
地謡「山は三笠に影さすや。春日そなたに現はれて。誓ひを四方に春日野の。宮路も末あるや曇りなき。西の大寺月澄みて。光ぞまさる七大寺。御法の花も八重桜の。都とて春日野の。春こそのどけかりけれ

ん~~、天竺から日本へ霊地が遷った、と信じるには、ちょっと論拠が甘いかな~、という気もしますが。。(;^_^A

サシでは天台山(中国・浙江省。天台宗の根本道場。最澄、円珍もここで修行。別名=華頂山)が比叡山に遷り、五台山(中国・山西省。文殊菩薩の住地の清涼山に見立てられる霊地。巡礼者多数)は吉野山・筑波山に遷り、さらに霊鷲山(中インド、マガダ国。釈迦が法華経を説いたという山)はここ春日山に遷った、と説かれます。注目すべきは「昔は霊鷲山。今は衆生を度せんとて。大明神と示現しこの山に宮居し給へば」という文言でしょう。先にシテとワキの問答の中でシテが「これまた仰せとも覚えぬものかな。仏在世の時ならばこそ。見聞の益もあるべけれ。今は春日の御山こそ。すなはち霊鷲山なるべけれ」と言っているのも、このサシで語られるこの文言が前提となっているからです。

クセの冒頭で引かれる「我を知れ。釈迦牟尼仏世に出でて。さやけき月の。世を照らすとは」という和歌は、『続古今和歌集』に「春日御神詠」という詞書で見え、また『沙石集』では解脱上人に与えられた歌とされています。このあとに見られる「しかれば誓ひある~迷ひを照らす故なれや」という言葉は、春日明神が衆生の迷いを救う誓いを立てた事を語り、それが釈迦の誓いと同じであることを語ります。あれあれ? 日本の神様ってそんなに優しかったかなあ? 続く詞章は釈迦が教えを説いた有様の事で、美しい装飾のついた服を脱ぎ捨ててボロをまとい、鹿野苑ではじめて四諦(四つの真理=原始仏教の中心的な思想)を説いたこと(初転法輪)を指します。

「鹿野苑」(ろくやおん)とはインド北東部サールナートのことで、本当に鹿に関係して名付けられた地名で、「鹿の王」という言葉の転訛なのだそうですね(「鹿の王」の物語のご紹介は割愛しますが。。)。春日神社に群れ居る鹿が、この聖地がここに遷された証左だ、とシテは説くのです。

このあと、クセの後半部は春日の里に花開いた仏法の果実~七大寺も光り輝き、春ののどかな陽光がそれをさらに飾り立てる、と、明恵が信奉すべき日本の霊地の賞賛が謳われます。あ、この能の季節は春だったのか。。