ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

『井筒』~その美しさの後ろに(その13)

2007-09-01 01:40:10 | 能楽
サシ~下歌~上歌の間のシテの型は、下歌の中では「導き給へ法の声」と正へ二足ツメル程度。上歌の中は少々型がありまして、「松の声のみ聞ゆれども」と右ウケて見やる型があって(ぬえの師匠はその一句前、「眺めは四方の秋の空」からいつも右にウケておられます。文意に沿うように工夫されたのでしょう。今回も ぬえは師匠からその型にて勤めるよう稽古を受けました)、「嵐はいづくとも」と正面に直して少し出て下居、左手に持った木葉(あるいは水桶)を前に置いて両手を合わせて合掌し、やがて立ち上がって後ろに向いて少し戻り(立ち位置を直し)、「何の音にか覚めてまし」と上歌の止まり一杯に正面に向きます。木葉を下に置いて合掌するのはじつは意外に忙しい型です。水桶にすればあまり背中を丸くしないで床に置けるし、少しだけ手間もはぶけるのですが。。今回の ぬえはあえて木葉を持つことにしました。

シテの上歌が終わると、ワキの問いかけがあって、問答となります。

ワキ「我この寺に旅居して。心を澄ます折節に。女性一人来たり給ひ。これなる板井をむすび花を清め香を焚き。あれなる塚に回向なし給ふこと不審にこそ候へ
シテ「これは此のあたりに住む者なり(とワキへ向き)。この寺の本願 在原の業平は。世に名を留めし人なり。されば(と正面に向き)その跡のしるしもこれなる塚の陰やらん。わらはも委しくは知らず候へども。花水を手向け御跡を弔ひ参らせ候(とワキへ向きツメ)
ワキ「げにげに在原の業平は。世に名を留めし人なりさりながら。今はあまりに遠き世の。昔語りの跡なるを。かやうに弔ひ給ふ事。その在原の業平に。いかさま故ある御身やらん
シテ「故ある身かと問はせ給ふ(とワキへ向き)。その業平はその時だにも(正へ直し)。昔男と云はれし身の。ましてや今は遠き世に。故も所縁もあるべからず(とワキへ向き)
ワキ「もつとも仰せはさる事なれども。此処は昔の旧跡にて 
シテ「主こそ遠く業平の ワキ「跡は残りてさすがにいまだ 
シテ「聞えは朽ちぬ世語りを(とワキへ向き) ワキ「語れば今も シテ「昔男の(とツメ)

最初のシテの答えの部分「花水を手向け御跡を弔ひ参らせ候」と型附ではワキへツメる事になっていますが、そこではツメずに、二度目の答えの最後「ましてや今は遠き世に。故も所縁もあるべからず」とツメる演者が多いように思います。ツメ足はシテの言葉の強調なので、「このように弔っているのです」と、シテとは縁もゆかりもないワキに言う言葉を強調するよりもワキの「ゆかりがあるのでしょう?」という問いに対して「はるかな昔の人の事。ゆかりのあろうはずがありません」と言うときにツメる方が効くのは確かですね。ぬえとしては、こういう曲の、とくに前シテではできるだけ型附に忠実に演じたい、という気持ちもあるのですが、ここはどちらにしようかまだ迷っているところです。。

ついで地謡の上歌となり、ようやくシテは動き出すのですが、これまたとっても静かな型が続きます。でもこの上歌、詞章も美しいし、型も上手につけられています。そして。。ぬえはこの上歌の型には『朝長』の前シテがどうしても重なってしまうのです。型も共通している部分があるし。。これに気づいたところから、この『井筒』の前シテの性格について ぬえはいろいろと想像を巡らせるようにもなりました。

「第三回 ぬえの会」のご案内