ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

『井筒』~その美しさの後ろに(その15)

2007-09-03 01:29:06 | 能楽
それにしても、「草茫々として」と周囲を見渡す型は本当に良い型ですね。こういう型は面の善し悪しもすぐにわかってしまいますけれど。。ぬえも面は割と所蔵している方だと思いますが、女面はほとんど使い物になりません。それほど女面というのは難しいのです。たとえて言うなら、1mmの何分の一か肉を削るのが違ってもまったく違った面になってしまうのです。その点 ぬえの師家には、よくまあ、これほど良い面が集まったものだと思います。先日の虫干しの際にも所蔵面を一堂に出しましたが、まあ。。ため息が出るばかりでした。

そして ぬえは現代の能面作家とも何人か交友を持っていますが、やはりつくずく女面は難しいと思ったりします。師家で見る、そうだな。。江戸初期頃までの面、女面に限らずこの頃までの面が持つ力というのは、本当にすごいものです。これは なぜ現代ではできないんだろう。。? と ぬえがいつも思う事でもあります。ぬえは能は日本文化の中で咲いた大輪の花だとは思うけれども、これは毒を持った花なのだと思うのです。権力の中枢にいて生活が保証されていたからこそ能は洗練することができた、というのも一面の真実でありましょう。この文化を享受する人の蔭でバタバタと飢えて死んでいった人もいたはず。。この時代の能面の持つ力も、そういう怨念のようなものに裏打ちされているからに他ならない。そして能面作家も、良い面を打てなければ即、権力者の庇護を失って飢える身になることだってあったでしょう。そういう必死さがこの時代の面の力の蔭にある、と ぬえは感じます。民主主義の中からじゃ生まれないモノもある。それもまた事実なのです。。

そんなわけで、今回 ぬえは、装束はほとんど自分の所蔵のものを使うけれど、面は師家から拝借させて頂きます。じつは師家の所蔵面の中で、今回使いたいなあ。。と狙っている面もあるのですけれども、これはお許しが得られるかどうかは、現時点ではまったくわかりません。お許しが出なかった場合の事も考えて、第二希望、第三希望も ぬえの中で策略は持っておりますが。。

ところで『井筒』に使う面について、「深井」を使う場合もある、という記述が装束附にある、というお話を先日このブログでご紹介しました。これは ぬえも実見した事がないですし、現代では実際にそういう上演の例はほとんど、いやあるいは全くないのではないかと思います。観世流では三番目物の曲には「若女」を使うのが建前となっているので、実際にはこの面を使う例が最も多いのだと思います。

しかし三番目の能には「小面」を使う場合もあって、とくに『井筒』の場合はそれを選ぶ演者も比較的多いのではないかと思います。おそらくこの曲が「筒井筒、井筒にかけしまろがたけ」という幼なじみの恋物語をモチーフにしているから、というのが小面が選ばれる大きな理由だと思いますが。。ぬえはそれは ちょっと納得しかねる解釈です。幼い頃からの恋心が成就して男に添うことができたシテの女ではありますが、その後男は浮気をして河内の国高安の郡の女のもとに通った、と、『伊勢物語』の「井筒」の段である二十三段には続けられてあります。そして、そこに通う男の不実を知らないのか、彼女は出かける男を気持ちよく送り出して、「風吹けば沖つ白波龍田山」の歌をひとり詠んでその安否を気遣う。前栽の蔭でそれを聞いた男はこの女を愛おしく思って河内には通わなくなった、という結末が二十三段にはあって、これまた貞淑な女のイメージを語るエピソードではありますが。。

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