先日は師家の月例会「梅若研能会」9月公演で能『東岸居士』の地謡を勤めて参りました。やっぱり地謡はかなり難しい曲だけれど。。まあ何とか間違いはなく謡うことができて、まずひと安心。
それにしても、この『東岸居士』という曲。。不思議な曲です。まず、およそストーリーというものがない。ワキは「遠国方の者」で、ようするに物見遊山に都に来ている人です。この日はたまたま清水寺への参詣を思い立った、という程度で、僧ワキのように京都の社寺を礼拝することを目的にしているわけでもないようです。そのうえこのワキは清水の近所の白河に到着すると門前の人(間狂言)に「何か面白いことはないか」なんて問うている。まさに都を見物しているのです。門前の者は「別に面白いものはないが、ここに自然居士の弟子に東岸居士という人があって、橋の勧進のために面白い説法をする者がある」と言い、ワキが興味を示すとこれを呼び出します。
さて登場した東岸居士とは有髪で出家もせず法衣も着ず、鞨鼓・ささらを打ち囃しながら説教をするという不思議な求道者。ワキに今日の聴聞の内容を問われても「柳は緑、花は紅」と、目前の景色こそが真実相という蘇東坡も採り上げた句を引き合いに出すと「あら面白の春の景色やな」となんだか人を煙に巻いたような答えをします。東岸居士が勧進する橋の謂われを問われると、先師自然居士が建立したと答え、出身地や来歴を問われると「むつかしの事を問ひ給ふや。もとより来る所も無ければ出家と云うべき謂われもなし。出家にあらねば髪をも剃らず、衣を墨に染めもせで、ただ自づから道に入って。。」と、これまた曖昧な返事。。なんだか政治家の会見を聞いているようだ。。
ワキもシラけたのか(?)「いつもの如く謡うて御聞かせ候へ」とさきほど門前の者から聞いた説法の実演を迫り、シテは「げにげにこれも狂言綺語を以て讃仏転法輪の真の道にも入るなれば」と納得して舞を見せます。このときのシテの言葉「面白やこれも胡蝶の夢のうち、遊び戯れ舞うとかや」なぞ、なんだかデカダンスな雰囲気さえ漂います。
ところが舞を終えてシテは本格的な説法を述べ始めます。ここが問題の難解なクセで、この文句がまた超難解。。あれ、よく読むとそうでもないか。。
正像すでに暮れて末法に生を享けたり。かるが故に春過ぎ秋来たれども、進み難きは出離の道。
罪障の山には何時となく煩悩の雲厚うして仏日の光晴れ難く、生死の海には永劫に無明の波荒くして真如の月宿らず。
生死の転変をば夢とや言はん、また現とやせん。これらありと言はんとすれば雲と昇り煙と消えて後その跡を留むべくもなし。
殺生・偸盗・邪淫は身に於いて作る罪なり。妄語綺語・悪口両舌は口にて作る罪なり。貪欲・瞋恚・愚痴はまた心に於いて絶えせず。
。。この直後にどうして「御法の船の水馴棹、みな彼の岸に到らん」という文句に繋がるのだろう。。
ま、ともあれ、ワキはさらに鞨鼓を打つ事を勧め、シテは景色を愛でながら鞨鼓を打ちますが、キリではその遊楽の様も仏法になぞらえて説かれます。
百千鳥さへづる春は物ごとに あらたまれども我は古りゆく (古今集春歌上)
さざ波はささら、打つ波は鼓、いづれもいづれも極楽の歌舞の菩薩の御法とは聞きは知らずや旅人よ、旅人よ、あら面白や。
げに太鼓も鞨鼓も笛篳篥、弦管ともに極楽のお菩薩の遊びと聞くものを。なにとただ雪や氷と隔つらん。萬法みな一如なる実相の門に入らうよ。
これで終曲(汗)。つまり説法の内容そのもの、それを舞い謡う東岸居士の振る舞いそのものが上演の目的だったりするのです。
それにしても、この『東岸居士』という曲。。不思議な曲です。まず、およそストーリーというものがない。ワキは「遠国方の者」で、ようするに物見遊山に都に来ている人です。この日はたまたま清水寺への参詣を思い立った、という程度で、僧ワキのように京都の社寺を礼拝することを目的にしているわけでもないようです。そのうえこのワキは清水の近所の白河に到着すると門前の人(間狂言)に「何か面白いことはないか」なんて問うている。まさに都を見物しているのです。門前の者は「別に面白いものはないが、ここに自然居士の弟子に東岸居士という人があって、橋の勧進のために面白い説法をする者がある」と言い、ワキが興味を示すとこれを呼び出します。
さて登場した東岸居士とは有髪で出家もせず法衣も着ず、鞨鼓・ささらを打ち囃しながら説教をするという不思議な求道者。ワキに今日の聴聞の内容を問われても「柳は緑、花は紅」と、目前の景色こそが真実相という蘇東坡も採り上げた句を引き合いに出すと「あら面白の春の景色やな」となんだか人を煙に巻いたような答えをします。東岸居士が勧進する橋の謂われを問われると、先師自然居士が建立したと答え、出身地や来歴を問われると「むつかしの事を問ひ給ふや。もとより来る所も無ければ出家と云うべき謂われもなし。出家にあらねば髪をも剃らず、衣を墨に染めもせで、ただ自づから道に入って。。」と、これまた曖昧な返事。。なんだか政治家の会見を聞いているようだ。。
ワキもシラけたのか(?)「いつもの如く謡うて御聞かせ候へ」とさきほど門前の者から聞いた説法の実演を迫り、シテは「げにげにこれも狂言綺語を以て讃仏転法輪の真の道にも入るなれば」と納得して舞を見せます。このときのシテの言葉「面白やこれも胡蝶の夢のうち、遊び戯れ舞うとかや」なぞ、なんだかデカダンスな雰囲気さえ漂います。
ところが舞を終えてシテは本格的な説法を述べ始めます。ここが問題の難解なクセで、この文句がまた超難解。。あれ、よく読むとそうでもないか。。
正像すでに暮れて末法に生を享けたり。かるが故に春過ぎ秋来たれども、進み難きは出離の道。
罪障の山には何時となく煩悩の雲厚うして仏日の光晴れ難く、生死の海には永劫に無明の波荒くして真如の月宿らず。
生死の転変をば夢とや言はん、また現とやせん。これらありと言はんとすれば雲と昇り煙と消えて後その跡を留むべくもなし。
殺生・偸盗・邪淫は身に於いて作る罪なり。妄語綺語・悪口両舌は口にて作る罪なり。貪欲・瞋恚・愚痴はまた心に於いて絶えせず。
。。この直後にどうして「御法の船の水馴棹、みな彼の岸に到らん」という文句に繋がるのだろう。。
ま、ともあれ、ワキはさらに鞨鼓を打つ事を勧め、シテは景色を愛でながら鞨鼓を打ちますが、キリではその遊楽の様も仏法になぞらえて説かれます。
百千鳥さへづる春は物ごとに あらたまれども我は古りゆく (古今集春歌上)
さざ波はささら、打つ波は鼓、いづれもいづれも極楽の歌舞の菩薩の御法とは聞きは知らずや旅人よ、旅人よ、あら面白や。
げに太鼓も鞨鼓も笛篳篥、弦管ともに極楽のお菩薩の遊びと聞くものを。なにとただ雪や氷と隔つらん。萬法みな一如なる実相の門に入らうよ。
これで終曲(汗)。つまり説法の内容そのもの、それを舞い謡う東岸居士の振る舞いそのものが上演の目的だったりするのです。