この、後者の意味の申合は近代になって行われるようになりました。座付きと言って近世まではシテ方の座(流儀)におつきあいする三役(ワキ方・囃子方・狂言方)が定められていたのが、近代になって、どのお流儀同士でも自由に一緒に上演するように変わった際に、それぞれの伝承の違いが実演上に大きな問題となったために流儀の代表者が集って 摺り合わせ…つまり申合がなされたのです。
それでも、なんせ200番を超えるレパートリーの、その細部に渡って、能楽に関わるすべてのお流儀の代表者が取り決めをする、なんて そもそも不可能に近いことだと思います。舞の寸法、詞章の大幅な相違、謡の緩急、そして小書による異同…それらのすべての違いを摺り合わせるのは気の遠くなるような作業のはずで…。そこで寺の名前の読みの清濁の違いまでは いまだに相違があるままなのですね。…いやむしろ、ぬえは、それほど演出や詞章に違いがある流儀が一堂に会して上演しているのに、現代では申合(前者の、リハーサルの意味での)1度だけで齟齬なく上演当日を迎えられる事実の方が驚異的だと思います。それほど先人…と言っても近代初期の、さほど古くない時代の先人たちの努力があったという証左ですね。
そして、申合(後者の意味の摺り合わせ)は現代でも続いています。この忙しい現代ですし、すでに先人が大きな努力を傾注して申合は済まされていますので、現代では細々と、ときおり、という感じですが、それでも円滑な舞台進行のために努力は続けられています。
それでも、現代でも大きな齟齬もまだいくつかありますね。ぬえが知っている中では『小督』に面白い例があります。この曲のシテは源仲国という人ですが、謡曲本文に記されている彼の官職が、シテ方の流儀によって違っているのです。ところがその彼の官職について言及するのは、能の冒頭に登場するワキだけなんですよね。そうして、この官職名の異同については現代でも申合がなされていません。シテは自分の官職について語らないので、結局 ワキがそのお流儀に伝わる本文を謡ってしまうことで、シテは自動的に舞台の上ではその官職に定まってしまい、シテ方の流儀によっては、その謡本に記されている官職としての仲国は、ついに舞台に登場しないことになってしまいます。
…がしかし、シテの官職名自体は、舞台の進行そのものには影響がないので、いまだに摺り合わせは行われていません。将来的に、少しずつ、時間を掛けて進められていくのでしょう。
間「いかに居士へ申し候。聴衆も群衆仕り候間。急ぎ御出であって。説法を御述べ候らへや。
さて『自然居士』に戻って、間狂言は橋掛リの入口(後見座の前)に立つと幕に向かい、自然居士を呼び出します。この間狂言ですが「門前に住居する者」と本人が言う割には、それ以上に寺に密接な関係を持った人物のようです。この場面でも説法を聞かんと聴衆が集まったところで居士を呼び出して説法を始めるよう促していますが、この後もこの間狂言は居士の秘書のような印象で、重要な役割を勤めていくことになります。
狂言の言葉を聞いてシテは幕を揚げて登場します。とくに登場の囃子などはこの曲にはありません。間狂言に呼び出されてシテが登場するのは、狂女物や遊興の性格の強いシテの場合の常套の演出ですね。『自然居士』のシテはありがたい説法をするために登場するのですが、こういうところから、シテが遊興の気分を持った人物なのだということがイメージとして提出されている、ということはあると思います。しかし、無音のところで登場するのは難しいですね。同様に無音の中で中入するのも ぬえはあまり得意ではないなあ…それほど囃子の力というのは大きいものです。
しかし『自然居士』で特徴的なのは、シテが橋掛リで歩む途中、一之松で立ち止まって正面に向き、ひと声を発することでしょうね。
シテ「雲居寺造営の札召され候へ。
それでも、なんせ200番を超えるレパートリーの、その細部に渡って、能楽に関わるすべてのお流儀の代表者が取り決めをする、なんて そもそも不可能に近いことだと思います。舞の寸法、詞章の大幅な相違、謡の緩急、そして小書による異同…それらのすべての違いを摺り合わせるのは気の遠くなるような作業のはずで…。そこで寺の名前の読みの清濁の違いまでは いまだに相違があるままなのですね。…いやむしろ、ぬえは、それほど演出や詞章に違いがある流儀が一堂に会して上演しているのに、現代では申合(前者の、リハーサルの意味での)1度だけで齟齬なく上演当日を迎えられる事実の方が驚異的だと思います。それほど先人…と言っても近代初期の、さほど古くない時代の先人たちの努力があったという証左ですね。
そして、申合(後者の意味の摺り合わせ)は現代でも続いています。この忙しい現代ですし、すでに先人が大きな努力を傾注して申合は済まされていますので、現代では細々と、ときおり、という感じですが、それでも円滑な舞台進行のために努力は続けられています。
それでも、現代でも大きな齟齬もまだいくつかありますね。ぬえが知っている中では『小督』に面白い例があります。この曲のシテは源仲国という人ですが、謡曲本文に記されている彼の官職が、シテ方の流儀によって違っているのです。ところがその彼の官職について言及するのは、能の冒頭に登場するワキだけなんですよね。そうして、この官職名の異同については現代でも申合がなされていません。シテは自分の官職について語らないので、結局 ワキがそのお流儀に伝わる本文を謡ってしまうことで、シテは自動的に舞台の上ではその官職に定まってしまい、シテ方の流儀によっては、その謡本に記されている官職としての仲国は、ついに舞台に登場しないことになってしまいます。
…がしかし、シテの官職名自体は、舞台の進行そのものには影響がないので、いまだに摺り合わせは行われていません。将来的に、少しずつ、時間を掛けて進められていくのでしょう。
間「いかに居士へ申し候。聴衆も群衆仕り候間。急ぎ御出であって。説法を御述べ候らへや。
さて『自然居士』に戻って、間狂言は橋掛リの入口(後見座の前)に立つと幕に向かい、自然居士を呼び出します。この間狂言ですが「門前に住居する者」と本人が言う割には、それ以上に寺に密接な関係を持った人物のようです。この場面でも説法を聞かんと聴衆が集まったところで居士を呼び出して説法を始めるよう促していますが、この後もこの間狂言は居士の秘書のような印象で、重要な役割を勤めていくことになります。
狂言の言葉を聞いてシテは幕を揚げて登場します。とくに登場の囃子などはこの曲にはありません。間狂言に呼び出されてシテが登場するのは、狂女物や遊興の性格の強いシテの場合の常套の演出ですね。『自然居士』のシテはありがたい説法をするために登場するのですが、こういうところから、シテが遊興の気分を持った人物なのだということがイメージとして提出されている、ということはあると思います。しかし、無音のところで登場するのは難しいですね。同様に無音の中で中入するのも ぬえはあまり得意ではないなあ…それほど囃子の力というのは大きいものです。
しかし『自然居士』で特徴的なのは、シテが橋掛リで歩む途中、一之松で立ち止まって正面に向き、ひと声を発することでしょうね。
シテ「雲居寺造営の札召され候へ。