ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

『自然居士』~「劇能」のおもしろさ(その4)

2010-06-21 01:51:31 | 能楽
ところで、この子方が登場する前に話を戻して、自然居士が高座で説法をする様子について、世阿弥が書き残した有名な言葉があります。

先祖観阿。(中略)大男にていられしが、女能などのは細々となり、自然居士などに、黒髪着、高座に直られし、十二三斗に見ゆ。「それ一代の教法」より、移り移り申されしを、鹿苑院、世子に御向かい有て「児は小股を掬かうと思ふ共、こゝはかなふまじき」など、御感のあまり御利口有し也。何にもなれ、音曲をし替へられしこと、神変也(『申楽談儀』)

「それ一代の教法」という文句は現行の『自然居士』には見えませんが、同じく世阿弥の『五音』に同じ章句からはじまるかなり長文の詞章が記されてあり、この部分は『自然居士』上演史の中でいつの間にか割愛されてしまったものだと思われます。『五音』のこの部分には「自然居士 亡父曲」とあって本曲は観阿弥作と考えられるのですが、『申楽談儀』の上に掲げた記事によれば観阿弥は自作の『自然居士』を得意曲としていた様子が伺えます。

ここでは鹿苑院…足利義満が観阿弥の芸に感心して、横に侍らせていた世阿弥に向かって「おチビさんは小技を駆使して父の芸を超えようと思っているようだが、こういうところはとても叶わないな」と利口=軽口をきいた、というのです。義満のナマの声が聞こえてくるような、公文書や公卿の日記などとはまた違った風情のこの部分は ぬえも大好き。義満や世阿弥が生きていた時代に、ふと呼び込まれてしまうような、そんな文章ですね。

一方 ぬえは、これら世阿弥伝書に書かれている内容に、演者として考えるところがあります。あ、これは一種の職業病みたいなものですが…

まず『五音』に出てくる、現行では割愛されてしまった詞章ですが、あまりに長文で、どうも曲の中にウエイトを占めすぎるように思います。これが割愛された現行の『自然居士』の方が はるかにスッキリして、ストーリーの流れがわかりやすいかもしれませんね。

…と思っていたら、この部分は高座での説法ではなく、その前、狂言に呼び出されたシテが橋掛リで独白のように謡ったものではないか、という論考があることを知りました。

なるほど、ちょうど『歌占』のような感じでしょうか。物語の現場となる場所に到着する前にシテが長く謡うこの場面は、独白でもあり、お客さまに主人公の経験や立場、それに心理状態などを説明をする機能もあり、はたまた職業としての占いの呼び声をしている現実的な場面でもある…こうして能の舞台はお客さまの理解を得て、はじめて速い物語展開をも可能にするわけです。これと同じ仕掛けでしょうか…それにしても『五音』に見える詞章は、あまりに長大に過ぎますけれどね。

『申楽談儀』ではこの所を高座の上での謡と読んでしまいがちではありますが、「移り移り申されしを」というところを、あとに出てくる「音曲をし替へられしこと」に通じるような千変万化の声の出しよう、という意味でもありましょうが、そのほかに「橋掛リから高座のある舞台へ移動しながら」という意味も同時に持ち合わせている、と考えれば、この考え方は成り立つでしょう。


次に『申楽談儀』の義満の言葉ですが、ぬえは実演者として、ちょっと違和感を感じるのです。
世阿弥は父が能を勤めている時に、楽屋ではなく見所にいたのですね…。

つまり、観阿弥の芸に感心し、美童だった世阿弥に魅了された義満は、その両方に対する欲求を満たすために、観阿弥を舞台に、世阿弥を自らの傍らに置いたのでしょう。父・観阿弥にとっては複雑な気持ちだったに違いありません。時の最高権力者である将軍に贔屓され、傍らに置かれる我が子は誇らしかったでしょうが、反面、自分の芸を我が子に伝えたい、楽屋から自分の側に置いて舞台の勉強をさせたい、と願っていたことでしょう。少年期の世阿弥のように容貌の秀麗さではなく、芸という実力で将軍の後援を勝ち取った観阿弥にしてみれば、美貌なんて移ろい去っていく物に過ぎません。実力を磨く努力を続けることこそが、自らに反映と安定をもたらすのだ、という事は痛感もしていた信念だったに違いないのです。

結局 世阿弥は父の心配はよそに、権力者の贔屓のうえに あぐらをかく事なく努力を重ね、能の芸や作能に革新的な変革をもたらしました。…こうして考えると、『風姿花伝』の「年来稽古条々」などに見える「時分の花」などの文言は、父・観阿弥の教えでもあったろうし、また世阿弥自身が冷静沈着に貴人に能を好んでもらう方法を考えていた、その結実でもあるのかもしれません。