ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

主人公がいない能~『春日龍神』について(その1)

2007-06-07 22:49:39 | 能楽
先日の『隅田川』からおよそ2週間という短い時間で、次なるシテの舞台、梅若研能会6月例会での『春日龍神』のお役が巡ってきます。いやはや、何とも忙しい。どうしても『隅田川』の稽古に比重がかかってしまうのは仕方のないことでしたが、それでも ぬえは切能が好き。この『春日龍神』も楽しみにしております。短い時間ではありますが、この曲について考察してみたいと思います。

まずは例によって舞台経過のご紹介から~。

囃子方と地謡が座着くと、すぐに「次第」が奏されてワキとワキツレが登場します。ワキは明恵上人(1173~1232)ですから、舞台は鎌倉時代前期ということになります。ワキツレは2~3人で、これは無名の明恵の従僧という役です。彼らは角帽子(すんぼうし)をかぶり、僧衣を表す水衣(能の独自の薄絹の装束)を着るという能の僧体の姿ではありますが、大口を穿いていて位の高い僧であることが示されます。さらにワキは着付に小格子厚板を着て、さらに位の高さを表します。従僧の着付は無地熨斗目。旅僧など位の低い僧の役の場合はワキであっても無地熨斗目を着流しに着て、そのうえに水衣を着ますので、大口・小格子厚板という、『春日龍神』のワキは相当に位が高い役であることを示しています。

舞台に立ち並んで向き合ったワキ・ワキツレ一同は「月の行方もそなたぞと、月の行方もそなたぞと、日の入る国を尋ねん」と「次第」謡を連吟し、地謡が同じ文句を低い調子で繰り返す「地取」の間にワキは正面を向き、ワキツレは下に控えます。ワキは「これは栂の尾の明恵法師にて候。われ入唐渡天の志あるにより、春日の明神に御暇乞ひ のため。只今参詣仕り候」と名宣リをし、ワキツレに向くとワキツレも立ち上がって再び一同は向き合い、「道行」を謡います。

「道行」は紀行文で、『春日龍神』の詞章は以下の通り。
「愛宕山。樒が原を外に見て。樒が原を外に見て。雲にならびの岡の松。緑の空も長閑なる。都の山を後に見て。これも南の都路や。奈良坂越えて三笠山。春日の里に着きにけり。春日の里に着きにけり」
すなわち明恵は京都から奈良に向かったのです。「道行」の定型の型として、後半部分「これも南の都路や」からワキのみ正面に向き数足歩んで再び立ち返る型をし、これをもって旅行が成し遂げられた事を表します。「道行」が済むとワキは正面に向き「急ぎ候ほどに。これははや春日の里に着きて候」と謡って舞台は奈良の春日大社に移りました。ワキツレに向いて「心静かに参詣申さうずるにて候」と問いかけるとワキツレも「尤もにて候」と受けて、一同は春日大社の境内にしばらく落ち着くことになりました。

一同が脇座へ行き着座すると、続いて「一声」が打ち出されます。切能の前シテの登場ですので位はサラリ目。しかし「本越」あるいは「半越」の「越之段」を入れるのが本来ですから、位取りはあると考えるべきで、「越之段」を省略して「一段」で登場するのが普通となった現代でも、神体としての前シテの位は尊重されるべきでしょう。

前シテの扮装は、面=小尉(または阿古父尉)、尉髪、翁烏帽子、小格子厚板、白大口、縷狩衣(両肩を上げる)、という、これまた神職の役の定型の扮装で、尉扇を腰に差し、『大仏供養』の後シテと同じく萩箒を右手に提げ持って登場します。

タイトルの「主人公がいない能」についての解説は追々に。。

【ギャラリー】建長寺・巨福能『隅田川』。。そして能面作家について

2007-06-06 01:49:38 | 能楽

本日、建長寺での巨福能でスチール撮影を担当してくださった渡辺国茂さんより『隅田川』の画像が送られてきました。その撮影の腕前に ぬえはビックリ。よくまあ、あれだけ暗い中で、混雑の中で、ここまで鮮明に撮れるものだ。。しかもシャッター音は ぬえ、ついに耳にしなかったのに。面白いのは子方の登場のシーンですね。シテがぼんやりと事態が飲み込めないでいる様子が遠景に写っています。こういう構図の『隅田川』の写真ははじめて見ました。







これらの画像はあらためて撮影者の渡辺国茂さんの許可を得て、近々に ぬえの会のサイトにアップしておきます。

ところで、今日はまた昼から『春日龍神』の稽古をして、それから ぬえが信頼している能面作家の方のお宅に久々にお邪魔しました。ぬえとこの能面作家の方とは、もう15年ほどのお付き合いになります。能面を打つ方は現在では多くおられますが、もともとアマチュアとプロの境目のない世界で、この方は ぬえが初めてお会いした当初は「趣味で面を打っています」とご自分でもおっしゃっていましたが、まあ、もともと素養のある方である上に大変に勉強熱心な方。能面展など古面を間近に見るチャンスがあればどんな遠方でも駆けつけ、面を所蔵するいくつかの施設ではお願いして泊まり込むようにして面に接し。現代のものであっても、有名・無名を問わず、プロ・アマに拘らず、能面の個展があれば必ず覗きに行く、というほどの方で、その方面では有名であるらしい。

たまたま ぬえと出会ったのがこの方にとって初めて能楽師と接する機会だったらしいのですが、一代目の能楽師で能面も持っていなかった ぬえにとっても、このような出会いは予想外でした。まずはその出来映えに驚きましたが、ぬえはすぐにそれを拝借して師匠にお目に掛けました。これがまた。繋がったのです。あまり知られていない事かも知れませんが、ぬえの師匠は能面の知識、審美眼にかけては能楽界の中でも有名で、これは何人かの能楽師に「君のお師匠さんは、少なくとも関東では一番能面に詳しいんじゃないかな。。」と、ぬえも言われた事があります。

そこで師匠にこの方の面を見せて批評を仰いだのですが、まあ、その指摘のスゴイこと。「般若は角と下あごの牙が同じ角度だと、表情が効くんだよ」「なんでも古色をつければ良いってものでもないよ?十寸髪は真っ白な方が好まれるんだ」。。聞いている ぬえはただ呆然。そんなところを師匠は見ているんだ。。着目点が違うのです。そして師匠のこの批評を ぬえがこの方に伝えると、これがまたさらに発奮させたらしく、また新しく面を打っては ぬえがそれを師匠のもとに運んでご批評を仰ぐ。それを伝えるとこの方はまた直して持参する。。ぬえは、師匠とこの方の間に立ちながら、能面を見る眼を養いましたし、この方から作品を預かるときには「ここは大変だったんです。市販の面相筆ではここまで細い毛は描けないので、穂先を削って。。」こんな苦労話を聞いて能面を打つ技法についても(多少ですが)学ぶ事ができました。

この方の腕が上がってくると、師匠は古面の補修を頼んだり、海外公演で使いたいけれど、それはとても怖くて海外には持って行けない古面の「写し」を打つことを命じたり、というレベルにまで達してきました。師匠との架け橋になった ぬえに感謝されたのでしょう、この方は ぬえにもいくつかの面をプレゼントしてくださり、ぬえも「それならば」と自分の舞台にその面を使ったり。本当にこの方と ぬえは、一緒に育って来たな~、と思います。そしてこの方の面を使う、使わないとはまったく無関係に、この方は ぬえの舞台には必ずお出まし下さっています。ぬえが招待券を差し上げようとしても、「私はアマチュアですから」と頑なに固辞されて。。

建長寺にもお出ましになったこの方、その翌日に ぬえに連絡があって、「今度 ぬえ先生は『春日龍神』を勤められますよね? もしも、稽古のためだけでも、お入り用かも、と思って打った「黒髭」の面が出来上がりましたので、よろしければ差し上げます」という内容でした。じつは、こうして頂いた面が ぬえ家にはたくさんあります。たまたま今日は『春日龍神』の稽古をするほかに用事のなかった ぬえは、喜んで久しぶりにこの方のご自宅に遊びに行ったのでした。

それで、いつかこの方の事もブログやサイトでご紹介したいとずっと以前から思っていた ぬえはデジカメを持参して、この方が面を打つところを撮影して、この際ついでにプロフィールも聞き出そうと考えました。あらかじめ「演出も必要ですから、作務衣か何かを着られて、木屑が散乱する作業場でノミを振るうところを撮影させてくださいな」とまでお願いして。

ところが。。ご自宅に到着すると、この方、普段着のままです。そして。。「お気持ちはありがたいですが、私は ぬえ先生の陰に居させて頂いてお手伝いができる事があれば、それで良いのです。私はアマチュアですから。。」

。。。

ぬえは「人」とは本当に良い「出会い」があります。ぬえ、恵まれていると思う。建長寺などという大名刹への出演の機会を無名の ぬえに与えて下さる方。そこに情熱を込めて撮影される方。忌憚ない観能の批評を寄せて下さる方。そしてこの方。ぬえはこの方の実名を公表して宣伝して差し上げたい。でも。。この方の気持ちに背くわけにはいかない。。いまは。。ぬえだけはこの方を「能面作家」と呼んでおこう。


この方から頂いた「黒髭」は。。素晴らしいものでした。。

【ご報告】建長寺巨福能

2007-06-04 08:39:18 | 能楽

↑事前の稽古。作物は ぬえの手製だったりします

昨日、鎌倉・建長寺での「巨福能」が行われました。初夏の晴天の下、爽やかな風が吹き抜ける鎌倉。今回は自分の装束や小道具・作物類をたくさん持参したので車で現地に向かったのですが、心配した渋滞はまったくなくて、快調に走ってかなり予定より早く到着してしまいましたが、この大伽藍を目にすると。。やっぱり緊張してしまう ぬえでした。

仏さまにご挨拶をして、そして準備に取りかかりましたが、やはり通常の舞台とは大いに勝手が違って、立つ位置を最初から決め直す作業にかなり膨大に時間が取られ、これは予定通りに会場に到着していたら、慌てふためいて舞台に出なければならなかったところでした。あの柱を目指して歩いて、止まるのはここ。それからいつもより少し大きく廻って、作物が目に入ったらグッと左に切れ込んで廻って。。後ろ半分が畳、前半分が板敷きという条件の舞台でしたが、だんだんと位置の感覚もつかめてきました。

正午をまわって、お囃子方も到着されたところで、急遽代役となった チビぬえの出番のあたりだけを舞台で申合をし、これは簡単にパスできたので、爽やかな風を楽屋で感じながら支度を進めていると。。あれあれ?会場の周囲の扉は全部閉めちゃうのね。。うう。。これは予想外の展開。ろうそく能ではないけれど、ほとんどそれに近い状態に舞台は設えられました。

さて催しの冒頭にはお坊さんによって般若心経が唱えられ、これはあらかじめ客席にもお経を記した紙が配られていて、お客さまも一緒に唱えておられました。続いて ぬえの師匠による仕舞『千手』が演じられて、それから『隅田川』の上演となります。

楽屋からはいったん会場の方丈をとりまく回廊、というか広縁に出て、ぐるっと建物の反対側まで歩いていかなければなりません。そのときの風の心地よかったこと。ところが。。舞台はとんでもない暑さでした。おまけにわずかなライトだけで照らされた舞台からは目印にした柱も見えない。。閉め切られた方丈の舞台でしたので、あの古色蒼然とした唐門や、その前に広がる白州を眺めながら舞う、という ぬえの期待もみ~んな夢と消えました。ああ、事前によく確かめておけばよかった。。

そんなこんなで舞台は始まりましたが、事前に決めておいた立ち位置を見つけだすのに最初から苦労して、冒頭から手探り状態、とちょっと危ない滑り出しで、サシの文句を一箇所間違えてしまいましたが。。次第に様子もわかってきて、「狂イ」までにはようやく舞台を使えるようになってきました。

問題は。。やはり暑さで、まだ立っている時、動いているときはそれほど感じなかったのですが、舟の中でおワキの「語リ」を聞いている頃から身にこたえはじめて。それでもこの後は座っている型が多くなるので、身体がぶれないように気をつけてはいたのですが、おワキから鉦鼓を受け取って塚に向き、立ち上がったそのとき。。意識を失い掛けた。。「立ちくらみ」に似た、血の巡りから起きた事なのでしょう。こんな経験も初めてでした。重心がグラッと傾いたのであわてて踏みこたえましたが、お目汚しの点だったと思います。。反省。

おワキとの同吟の念仏はかなり苦しかったのですが、その後の地謡の念仏になってからは正気を取り戻して、子方もまあ、あの暑い中作物で待機していながら間違える事もなく、よくやってくれました。その後のキリはまあまあ自分では思い通りにできたとは思います。能楽堂を離れた環境で舞うことは ぬえは海外ではよくあるし、また日本でも薪能やホール能での経験は何度かあるのですが、それともまた違う、劇場の形式を備えていない会場での変形の舞台で舞う事がこれほどつらいとは思いませんでした。お客さまも大変だったろうと思いますが、終わって楽屋に帰ってきた子方もおワキも汗びっしょり。よい勉強にもなったし、反省点も多い舞台となりました。

ちなみに面白い事もありました。舟の中で我が子の死を知り、おワキに促されて立ち上がったとき、おワキとの約束では、ぬえは塚のそばの自分で決めた立ち位置に行きたいので、その位置に到着したときにはシテの方から向きを変え始め、おワキにはそれを見て「なうなうこれこそ彼の人の墓所にて候へ」と言ってもらう事にしていたのです。ところが歩き出してみると、あらかじめ目標にしていた柱も、作物も見えない。。「あれ。。??どうしよう。。塚は。。どこだ。。?」とものすごく不安になりながら、それでも歩き続けて状況が改善するのを、目標を発見するのを探っていたところ、背後からおワキが「なうなう、これこそ。。」と言ってくれた。そこで向き直ってみたら。。塚はそこにありました。楽屋でお礼を言ったら「ええ。。どうしようかと思ったんですが、ぬえさん、塚を通り過ぎようとしていたので、これは見失ったんだな、と思ったもので」というお返事でした。やっぱ、プロですね。そこまで見抜いて、約束を違えてまで臨機応変に対応してくれたおワキに感謝。

それからお笛。楽屋に到着した彼は挨拶を終えると開口一番「トメは『丁々』を残すんですね?ブログに書いてあった通りでいいのね?」。。おいおい。(^_^; でもあの美しい「丁々」には ぬえも心動かされました。とっても信頼しているお笛方の友人ですが。。がんばっているなあ、彼。

。。あ、これも読んでいるかも知れないからって、おべんちゃらを言ってるんじゃないですよ?(;^_^A

いろいろ反省点もあった舞台で万全とは言えず、お客さまにはお目汚しもあったことを まずはお詫び申し上げ、あわせてご来場頂きましたことを深謝申し上げます。今後ともご教示、ご叱正賜りますよう、伏してお願い申し上げます。m(__)m

で、今朝はこれから早速、今月研能会で上演する『春日龍神』の稽古を致します。上演までもうあと2週間だ!

『隅田川』について(その20)

2007-06-02 17:10:55 | 能楽
『梅若権現御縁起』に現れる梅若丸の父母の名前が能『班女』と一致する、という問題は今回は考察しませんが。。

母親は。。シテは自殺しちゃうのかあ。。この『梅若権現御縁起』を読んだとき、能には書かれていない後日談の、これまたあまりに哀れな内容に驚きました。

ところが先日、ある地方での催しの際に楽屋でおワキと『隅田川』について話す機会があって、ぬえがこの『梅若権現御縁起』の結末について話すと、このおワキは「自殺する!?そうだったのか」とポンと膝を打ちました。

この大先輩のおワキの言った事がまた興味深かった。
何を納得したのかと思ったら、こういう事だったのです。

すなわち、『隅田川』では曲が終わってシテが退場するとき、どういうわけかワキやワキツレも同幕でシテと一緒に幕に退場するんです。じつは、ほとんどの能ではワキの退場は、シテよりずっと遅れて歩き出して、シテが幕に入った時に一度幕を下ろして、ワキやワキツレが幕にはいるときにはシテとは別に改めて幕を揚げて退場するのです。これを「別幕」と楽屋では呼ぶのですが、『隅田川』はワキとワキツレはシテと離れないように歩んで、いったん幕が上がったらシテに続いて三人とも一度に退場するのです。こちらは「同幕」と呼んでいます。

多くの能でシテとワキが別幕で退場するのは、なにもシテ一人に焦点を合わせる狙いがあるから、という理由ばかりではありません。多くのシテは幽霊であって、能が終わるとシテは異界に戻っていきます。一方、シテの出現を見届けるワキは旅僧であったり旅人であったり、ともかくほとんどの場合は現実の世界に住む人間です(唯一の例外が『邯鄲』の夢の中の勅使や官人)。つまり、シテとワキとは別な所に帰っていくのです。

またシテが現実の人間である場合でも、たとえば狂女能では最後の場面で母と子がめぐりあいます(これまた唯一の例外が『隅田川』)。このときは、はじめはワキが連れて登場した子方は最後にはワキから離れて幕へ引き、シテは舞台でトメ拍子を踏むのでそれよりは遅れるけれども、心は子方と同幕で引くつもりで、ワキはさらにそれより遅れて「別幕」で退場するのです。

『隅田川』では母子は再会することはないけれども、この後シテは我が子の後世を弔うためにこの土地に住み着いた、と考えるほどの材料はないわけで、お客さまには「失意のまま都に帰ったのかなあ。。」と想像される程度でしょう。だからシテとワキが「同幕」である必要も必然性もないのです。ぬえが話したこのおワキは「そうか。。『隅田川』のワキは、シテが心配でついて行くんだな。。」とおっしゃっていましたが、そうであるならば、「同幕」で引く、というだけで彼女の死を言外に予感させよう、という作者の意図が働いているのかも。。そうであっても、ここまでくると「想像できる人だけ彼女の行く末を想像してみてください」というような、甚だ希薄な演出意図と言わざるを得ません。長い歴史の中でこの曲の実演を重ねてきて、曲の演出を練り上げていくうちに、ふと、終曲部分にも演出を加え得る可能性が見つかって今のような形になったのか。。

いずれにしても、こんな細かい点にまで心を砕いて演出を考えた先人がいた事と、それを許す能の深さ、のような事を改めて考えた ぬえでした。

で、現代のシテの中にも、この退場の形式にまでこだわる方があるそうで、そのようなシテの頼みによってワキはわざわざ「別幕」で引いた事もあるそうです。一人でとぼとぼと引くことによってシテの孤独感を際だたせようとされたのですね。。その気持ちもよくわかる。さて、ぬえはどうしようかな。。

【了】

申合もまずは順調に終わり、今回の記念に新調した摺箔も出来上がりました。かなりキレイで嬉しい~。また師匠からは当日使う面として 河内家重作の「深井」を拝借させて頂きました。これまたかなり意味深な表情の面で、使うのは難しそうですが、挑戦しがいがある面でもあります。
。。でも、もう明日に迫って。ぬえは心臓バクバクです~(・_・、)

『隅田川』について(その19)

2007-06-02 02:17:31 | 能楽
墨田区の白髭橋の少し北側、まさに隅田川の河畔に「木母寺」(もくぼじ)というお寺があります。ここが現在「梅若丸伝説」とも言うべき物語にゆかりの寺で、境内には「梅若塚」があり、また寺宝として『梅若権現御縁起』という書物が伝わっています。「木母」とは「梅」の字を解体した名で、かつては「梅若寺」と呼ばれ、山号は梅柳山と号します。どこまでも梅若丸伝説に縁の深い寺ではありますが、現在は首都高速と巨大な堤防に遮られて隅田川を望むことはできず、また寺域もマンモス団地の陰で、お寺自体も近代的な鉄筋コンクリート造り。残念ながら往時の風情の片鱗さえ見ることはできません。

しかしながらこの寺に伝わる『梅若権現御縁起』は能『隅田川』にも深く関係し、とても興味深い書物です。以下、あらすじを記しておきます。

かつて都北白川に吉田少将これふさ、美濃国・野上の長者一人娘の花御せん、という夫婦があった。子宝に恵まれず、日吉社に参籠したところ、霊夢に童子が現れて「我が神身を化生して汝らが子となす」と告げ、やがて玉のような男児が生まれた。春待ち得たる梅が枝にめずらかに咲き出したる一花の心地がする、とて梅若丸と名付けられた子だったが、五歳の時に父少将は病のために世を去ってしまう。七歳のとき、母の勧めにより父が帰依した比叡山の月林寺に上った梅若丸は、仏典・詩歌・管弦にめきめきと才能を伸ばし三塔第一の児と呼ばれた。

ところが一方、同じ叡山の東門院にも松若という優れた稚児があり、世間の賞賛が梅若丸に集まると、松若をこの山第一と思う東門院の法師は梅若丸を闇討ちにしようと月林寺に押し寄せ、梅若丸はかろうじて寺を脱出した。頃は二月下旬、深山をさまよってようやく明け方に大津のあたりに出た梅若丸は陸奥の人商人・信夫の藤太と行き会う。藤太はこの稚児を陸奥へ連れ帰ろうと優しく接し、梅若丸はこれを情けある人と信じて北白川への道を問う。藤太は自分の向かう陸奥にも白川という地があることを幸いに梅若丸を騙し、道案内と称して同道した。途次に都まではこれほど遠くはないはずと泣き始めた梅若丸を藤太は縛り上げて、引っ立て引っ立て東国に向かい、ついに隅田川の河畔にたどりついた。

しかし習わぬ旅の疲れで梅若丸はこの地でにわかに病を得て弱り、今はひと歩みも運ぶに耐えずと伏してしまう。藤太はこれを陸奥へ連れ帰っても用に立たないと、憎々しげに梅若丸をうち捨てて下ってしまった。さてこの辺の人々は捨てられた梅若丸を見て由ある人と思い看病し、不思議なことには人の訪れない夜には二頭の猿が梅若丸の傍らに寄り添って彼を見守ったが、病は次第に重くなり、里人の問いに答えて国里や名前を告げ、母を恋しいと泣き、「尋ね来て問はば答へよみやこ鳥 すみだ河原の露と消えぬと」と辞世を残して三月十五日に息を引き取った。人々はたまたまこの地に来た出羽羽黒山の忠圓阿闍梨を導師として塚に葬り、柳を植えて標とした。

さて一方、梅若丸の母は叡山での争いのあと行方不明となった我が子を心配していたが、翌年になり姿格好の似た稚児を人商人が連れ去ったと聞き及んで、一人狂女の姿に身をやつしてその跡を追った。遠く隅田川の河畔に至り、業平の歌のように我が子を恋しく思いながら旅客とともに渡し船に乗った。このとき母は対岸に人が集まって念仏を唱えるのを認めて船頭に問うと、船頭はこの狂女ひとりが念仏の声に心をつけて問うとは優しい者かなと、この地で死んだ稚児の事、今日が一周忌に当たり人々が大念仏を唱えるのだ、と明かす。母は声をあげて船中に泣き伏してしまった。対岸に着いた舟を下りた母は群衆をかき分けて塚に至ると、村人たちも事情を知って念仏を勧める。その夜更け、人々の念仏に唱和する稚児の声が聞こえてくる。人々もこれを驚き、母一人での念仏を勧めると、不思議や標の柳の陰に梅若丸が現れる。抱き取ろうとする母だったが我が子は幻のように消えつ現れつするばかり。やがて我が子の姿は消え、母は一人残された。

翌日、忠圓阿闍梨を訪れた母は我が子の回向を頼み、阿闍梨は同情した村人の協力を得て小さな堂を建て、これが後に梅若寺となった。母はこの堂に一人我が子を弔う日々が続いたが、やがて父・少将殿や梅若丸とひとつ蓮の縁を急がんと思い立つようになった。すでに隅田川のほとりに立った母だったが、この川に身を投げてはいずこの海まで流されるかわからない、と考え直し、我が子の墓に近い底なしの池に臨むと、わが姿を池に映し「かくばかり我が面影は変はりけり 浅茅が池の水鏡見て」と詠んで身を投げた。忠圓阿闍梨はこれを聞いて驚き、死骸を捜し出して弔おうと人々に頼んで竿をさし入れて捜したが、ついに死骸は見つからなかった。

ところがそれから三日目に不思議な事が起こった。この池の主とも思える大きな美しい亀が母の死骸を甲羅の上に乗せて池の中から浮かび上がり、岸に死骸を下ろし、土をかけると再び池の中に消え去ったのである。希有な事と阿闍梨はそこにも堂を建て、これが後に妙亀大明神社となった。また母が入水した池は鏡が池と言われるようになり、梅若丸自身も山王権現と現れ、衆生を利益した。

『隅田川』について(その18)

2007-06-02 00:37:57 | 能楽
建長寺巨福能まで、もう当日まで2日を残すのみとなりました。ぬえにとっても名誉の催しなので、万全の体勢で臨みたいと思っております。おかげさまでチケットは発売直後に売り切れとなり、インターネットで宣伝した効果か、ぬえ宛にも50枚を超えるお申し込みがありました。

ところが。。残念なお知らせもあります。巨福能に向けて稽古を積んできた子方が、昨日より体調を崩し、本日予定された申合に参加できなくなってしまって。。従いまして、当日の出演も不可能となり、急遽チビぬえが『隅田川』の子方を代演する事となりました。ぬえの心も張り裂けてしまった。。でも、催しに失敗は許されません。幸いチビぬえはこれまでに4度『隅田川』の子方を勤めたことがあり、また今回も万が一のためのバックアップとして子方の稽古はつけてありました。本日の申合も無事に勤めることができ、それでも急遽の出演なので明日も稽古を続けて万全を期します。関係各位には多大なご迷惑をお掛けしました事をお詫び申し上げます。m(__)m


さて、念仏の中ではシテは鉦鼓を打ちますが、これは大鼓が打ったあとに打つのです。うまく鳴れば効果は絶大なのですが、意外に鉦鼓の真ん中に撞木を打ち付けるのは難しいですけれども。

念仏の合間にシテは正面を向いて謡うところが二度あります。「隅田川原の波風も声立て添へて」と「名にし負はば、都鳥も音を添えて」で、最初の時は撞木でサシて心持ちをし、再び作物に向いて地謡の中で鉦鼓を打つ準備をし、二度目は正面に向いたままで謡って、鉦鼓も正面を向いたまま。このとき地謡の念仏に子方が唱和します。正面を向いたまま鉦鼓を打つシテは、それに気づいてだんだんと体を作物に向けて、最後は鉦鼓を打つことを忘れて作物を凝視し、ワキに向いて「なうなう今の念仏のうちにまさしく我が子の声の聞こえ候。この塚の内にてありげに候よ」と興奮して言い、ワキもそれを認めて母ひとりで念仏を唱えるよう勧めます。

「いまひと声こそ聞かまほしけれ、南無阿弥陀仏。。」と作物の前に跪いて、もどかしげに鉦鼓を打ちながら塚に問いかける母。やがて子方の声が響くと、その姿が幻のように現れます。子方は全身が白ずくめ、すなわち死に装束で、頭だけが黒頭をかぶっています。「あれは我が子か」「母にてましますか」と声を掛け合う母子。しかし我が子に抱きつこうとするその手は空しく空を切ります。シオリながらとぼとぼと常座の方へ向かう母の前に、再び現れる我が子。しかし今度は両手で抱き取ろうとする母の手も、幻のような我が子には届きません。力なく正面を向く母の目には、東雲の空がほのぼのと明けてくるのが映り、我が子の塚を見れば、ただ春の草が茫々と風になびくのみでした。

このところ、本来の型は「我が子と見えしは塚の上の草」と面を下にトリながら塚に向き、「茫々としただ標ばかりの」と塚を下から見上げて小さく面をツカヒ、「浅茅が原となるこそ哀れなりけれ」と正へ向いてシオリながら跡へ下がりシオリ返シながら右ウケて二足ツメてトメる事になっていますが、近来は工夫で塚に抱きつく型をする事も多く、今回は ぬえも『隅田川』を勤めるのは二度目ですので、その型で勤めさせて頂く事と致しました。

このところ、自分の工夫では塚に抱きついてそのまま崩れるように膝をついてシオリ、それからシオリ返シをしながら斜め正面に向いてトメるつもりだったのですが、師匠から「作物に寄り添ったまま終わるのは、どうも絵づらとして良くないな。。」とアドバイスを頂き、次に、膝をついてから立ちあがり、少し下がりながらシオリ、シオリ返シをしながら作物に向いたままツメたところ、今度も「作物にツメ足をする事はあり得ない」と言われて、今日、師匠と相談のうえ、丸く下がりながら正面に向いてシオリ、シオリ返シは右ウケて、すなわち作物から顔を背けるようにしてツメる型とする事になりました。おそらく塚に抱きつく型をする多くの演者と同じやり方になったのだと思います。

それにしても。。このあまりにも悲しい終曲部では、大鼓のお流儀によってはトメの合頭を打たないやり方もあるのです。その場合は地謡がフェードアウトして終わり、笛だけが少し余韻を残す事になります。今回はそれにも挑戦したかったのですが、やはりまだ立場上僭越で、三度目にはやってみたいなあ。ただ、今回はお笛が森田流なので、大小の合頭のあとに「丁々。。」と吹く、あの独特の譜を残して頂くつもりでおります。

なんにせよ、あと2日。。これでとりあえず駆け足になってしまった『隅田川』の解説を終わりますが、明日はこの曲の本説と関係の深い「梅若丸伝説」について書いておこうと思います。

『隅田川』について(その17)

2007-06-01 01:27:23 | 能楽
作物に向いて着座したシテは「今までは。。」とクドキを謡います。とても沈んだ調子で謡うのですが、次第に気持ちが高ぶっていって、「この下にこそあるらめや」とズカリと謡って地謡に渡すと、地謡は「さりとては人々」と強く謡い、シテはワキの方を見てから「この土を」と塚の下の方を見、「返して今一度」と両手で土を掘り返す型があり、そのまま塚を見上げ、「この世の姿を」とガクリと安座するのですが、これは膝が割れてしまうので、ぬえは「ガクリ」と見えるように下居にしています。「母に見せさせ給へや」と双ジオリをしますが、型附には「体を段々と前へ伏す」と書いてあります。双ジオリというのは体を前へ掛けるのは当たり前なのですが、この場面は能にある双ジオリの中でも本当に残酷な場面で、少しぐらい気持ちを突っ込んで演じてもそれほど違和感は生じないかもしれません。ぬえなどはまだまだ冒険はできないけれど、以前に大正時代生まれの大先輩がここでずっと体を倒して行って、ついには床と平行になるほど背を倒したのを見た時には本当に驚いたものです。それでも背中が曲がらない。。なんという強靱な肉体なのか。。

ついで地謡は静かに「諦念」を表す上歌を謡います。「残りても甲斐あるべきは空しくて、あるは甲斐なき箒木の、見えつ、隠れつ面影の、定めなき世の習ひ。人間愁ひの花盛り。無常の嵐音添ひ。生死長夜の月の影、不定の雲覆へり。げに目の前の浮世かな、げに目の前の浮世かな」。。すごい文章だ。。もしも十郎元雅が20台や30代前半にこれを書いたのならば。。どんな人生を送ってきたのだろう。想像するだに恐ろしい。

ワキはここまでの間に舟を漕ぐために脱いでいた素袍の右肩を入れ、後見(または地謡)から鉦鼓を受け取ります。地謡の上歌が終わると、ワキは脇座の前(または正先)に立ち、夜念仏の時節であることを告げます。このところ、ワキ宝生流では「すでに月出で川風もはや更け過ぐる夜念仏の時節なればと面々に、鉦鼓を鳴らし勧むれば」と謡いますが、福王流ではその前に「今は何と嘆きてもかひなき事。ただ念仏を御申し候ひて。後世を御弔ひ候へ」という文句が入ります。この文句はシテに向かって言っている言葉ですが、宝生流のようにその文句を言わないのも、シテとは別個に参集した人々がそれぞれに念仏を唱え始める様子を客観的に述べる事によって、かえってシテの孤独感が表現されて効果的だと思います。またこの場面では「鉦鼓を鳴らし」と福王流ではワキがひとつ鉦鼓を「チーン」と鳴らしますが、宝生流では鉦鼓を打つ型をするだけで、音は鳴らしません。このへんも流儀の違いがハッキリ現れるところで、宝生流の場合はシテが鉦鼓を打つまで音色を秘しておくのですね。

一方シテは念仏に加わる気力もなく、シオリをして我が子を失った悲しみに耐えています。これを見たワキは「うたてやな余の人多くましますとも、母の弔ひ給はんのこそ、亡者も喜び給ふべけれと」と母への念仏への参加を勧め、鉦鼓を母の左手に渡します。これを打つためのハンマー状の「撞木」は、やはりシテの右手に持たせる場合と、シテの右膝の前に置くのと、ふた通りの方法があります。ぬえはその後のシテの文句に「我が子のためと聞けばげに、この身も鳬鐘を取り上げて」とありますから、撞木は床に置いて頂いています。

鉦鼓は小くて平らな金属の鐘で、紐がつけられています。ぬえは『隅田川』の初演のとき浅草の仏具屋さんで、それらしいものを買ったのですが、それには三つの足がつけられていて、どうやら机の上に置いて打つらしい。その三本の足を金ノコで切り落として、ヤスリで磨いて、紐は100円ショップで買った化繊の紐を工夫して取り付けました。もっともこの紐は観世流では棒状にぐるぐる巻きにしておいて、鉦鼓ともども手の中に収まるようにしておくのですが、他流、とくに下掛りのシテ方では紐を解いてあって、鉦鼓をペンダントのように首からかけていますね。ぬえはかつてその写真を見てひどく驚いたのですが、先日、友枝昭世師の『角田川』がテレビで放映されて、はじめて理屈が分かりました。すなわち、喜多流では「この身も鳬鐘を取り上げて」ではなく「鳬鐘を首に掛け」という文句になっていて、そのために紐を自分の首に掛けるのです。面を掛けたシテが自分で鉦鼓を首に掛ける。。難しい型です。

さてシテは鉦鼓を取り上げて塚に向かって立ち上がり、ワキとともに念仏を唱えます。そして地謡の念仏「南無阿弥陀仏。。」が始まるのです。