今日の地元紙の論説には、“島根の算数学力”“読解力不足が原因では”との見出しが躍っています。
新聞、特に論説ってあまり読まないんだけど、ついつい読んでしまいました。
結局根付いてない?
議員時代、学校図書館はライフワークとの思いでその充実に取り組んできましたが、そうか、学校司書配置事業に一番求めたいと思ったことは結局根付いてないのかと。
読解力の向上を学校司書に求めるのは酷というもの、その力を伸ばすための環境整備がそれで、論説の趣旨を敷衍した、教委、学校管理職、司書教諭、担任の意識改革による授業改善こそ必須と訴えてきたつもりですが、読解力向上という視点では、徒手空拳だった?
ただ、ことの本質はそういう皮相的なことじゃないんだよなあ、と思わずにいられないこの頃。
白石県議が“羨ましい❗日本での実現はあり得ないだろうなあ(/--)/”と長嘆息しながら?シェアした、“世界一の教育の国!フィンランドの教育がやばい!”というマイケル・ムアが取材した10分弱の動画。
宿題なし、テストなし、小学校低学年の週の授業時数20時間、そして、子どもの自主性尊重。
もっと落ちこぼれていたら
この動画やフィンランドの教育については、内外から様々な興味深い意見がありますが、それもむべなるかな。
ただ、僕は、世間で言われるであろう自分の落ちこぼれた生き方に照らして、このフィンランドの行き方には大賛成です。
本当は、もっと落ちこぼれていたら、もっとクリエイティブで、もっと早くから楽しめたかもしれないと。
こんな時代ですから、ある型では無理という子がたくさんいるので、様々あっていいと思う。
さまざまな選択肢や支え方、寄り添い方があってしかるべしだし、準備してあげたいものです。
しかし、学校も社会も、同調圧力がとても強く、読解力不足だとなると一斉にそっちを向いてしまう、学校図書館活用教育は、それぞれの子どもをさまざまな形、レベルで支え、寄り添うものなのかなあ。
だから、ちょっと違うんだろうなあ。
“いけずご王国”キックオフイベントは、そんなあり方や支え方など、実践者の皆さんと、子どもたちが真に子どもらしく生きるためには大人はどうしたらいいのか、どう支えたらいいのか、そんなことを考え、王国の活動に生かせるパネルディスカッションになるといいなあと思っています。
じっと見ていたくなる
今朝の畑では、こんな光景を目にしました。
こんな光景に気付き、目の前の全てを放っておいてじっと見ていたくなる子ども、これを見たら、他にはないかと目を皿のようにして探す子ども、そうあって欲しいし、それを許す環境を作っていきたいものだと思います。
そうなれば、知らず知らずに毒されてしまっている、経済優先の拝金主義社会がちょっとは変わるかな?