見習い百姓のつぶやき

宮仕えも一段落、半農半Ⅹを本格化。農的暮らしとさまざまなⅩを悩んで、楽しんで一歩づつ。

農を“生業”とする

2019-03-18 20:30:19 | 幸せに生きる

 面白い本だし、その通りとも思うんだけど、やっぱ、感覚が違うよなあ、そう思いながら読んでいます。
 著者の久松達央、僕から見ると羨ましくなるくらいユニークで、仕事ができる。

経済発展=幸せ? 
 今日のお昼、久しぶりに竹田さんの呼びかけでランチ会。
 顔を合わせたのは小人数でしたが、それ故に濃い話になってしまう、、、
 議論が白熱し、一番面白いなあと思ったのは経済発展についてですが、彼は、経済発展しなくては若者の雇用は確保できない、職がないのは彼らにとって不幸だと、僕は、それも必要かもしれないけど、それって不幸?

 ここで、「小さくて強い農業をつくる」で綴られた久松さんの思いとリンクしちゃいました。
 僕って、相当過激派になってしまったと思っていますが、それは、日本の上古代・カタカムナの人たちやアナスタシアの生き方を知ってしまったからなんですね。
 そんなことを思いながら夕食をしている際、共感してやまなかった「エンデの遺言」や「モモ」の作者ミヒャエル・エンデは、どんな生活をしていたんだろう?と。
 エンデが、上古代の人たちやアナスタシアのような生き方をしていたとしたら、羨望以外ありえないと思いますが、書斎を主戦場としてあの本が書かれていたとしたら、今の僕の生き方とそれほど変わらない。

農を“業”とする生き方・・・
 なぜ、久松さんの思いと僕は齟齬をきたすのか、それは、彼は農を“生業”としているからなんですね。
 竹田さんと語り合った雇用の場、竹田さんは人の生きる基盤をごく普通に“生業”にあると考えているのですが、僕は、自然とともにある暮らしにある方が自然じゃないかと考えてしまう。
 ただ、今の僕は、年金というある意味“生業”を持った上で上古代の人たちやアナスタシアのような生き方を考えてしまっている、ひょっとしたら、それはエンデもそうだったのか?と思っちゃったわけです。

 ことほど左様に、われわれの意識は、社会や教育を通して人として“ごく自然”な生き方はとても困難な上に普通ではないし、幸せではないと思い込まされているのではないでしょうか。
 便利は技術をなくすと言いますが、技術だけではなく生死観や幸福感まで大きく変わっているのかも。

古典日本髪への思いは
 今朝の山陰中央新報に、新庄のいけずご王国と同じ場所でサロンを営む中山ひろみさんが載っていました。
 記者の取材の折、ちょうどご主人もいらっしゃり、僕も同席させていただいていましたが、こんなに早く新聞に掲載されてちょっとびっくり。
 さて、中山さんの古典日本髪や日本文化への思いは、この松江でどんな展開になっていくのでしょうか。

コメント
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