<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

美しい耳をしていて薄い緑色

2014年07月11日 11時36分06秒 | Weblog
向日葵は象さんの耳をたくさんつけている。風が吹いてくるとアフリカ象の耳が裏返るのが見える。茎の上のあたりに行くにつれて耳は子象の耳になる。中くらいの高さにいる耳は美しい絵美さんの耳をしていて薄緑り色をしている。触るとやわらかそうだが、三郎は我慢をした。

向日葵は象さんの耳をたくさんつけている。これだけたくさんの耳だから、宇宙の果てのアイラブユーメールをもキャッチしているはずだ。なあんだ、たくさんの重たい耳はそのためだったのか。四方のアイラブユーを聞いてとろんとろんとして居眠りを始めた。今朝は曇り日。太陽がときおりウインクをして笑っている。

向日葵は象さんの耳をたくさんつけている。アイラブユーを聞くのが好きなのだ。人間の何倍も好きなのだ。アフリカ象の耳はふたつ。向日葵の耳は16枚。欲張りなんだ。愛されているということを聞いてうっとりするだけの耳だったら、16枚が32枚だっていいと言って、夏風に裏返ってふざけてみせた。
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そんなことどうだっていいじゃないか

2014年07月11日 10時33分10秒 | Weblog
「そんなことどうだっていいじゃないか」
三郎の友人は悩んでいる三郎を庇う。
どうだっていいことなんかなかったから悩んでいるのに、そんなことどうだっていいじゃないかと彼は言い捨てる。
そんなものに振り回されないで、捨ててしまへと言っているのだ。
「そんなこととは何だ!」三郎は抗う。
三郎を悩ませているのに、そんなことの肩を持つ。友人だって我が事になれば振り捨てられないはずである。
他人事だから、捨てろと言えるのである。
「馬鹿だなあ、きみを窮地に陥れていることなんかをそんなにむきになって擁護しなくてもいいはずだよ」彼はそう言ってその日は帰って行った。三郎の悩みは続いたがは、それでもその後幾分かこころが軽くなったような気がした。

台風は天気予報が報じるほどに被害をもたらさないですんだ。ただ庭の瓢箪が重みに耐えかねて落下するという事件が起こった。
風はそれほどでもなかったのに、重量のある瓢箪の実が揺れると、金木犀に巻き付いている蔓の頑丈さくらいでは、それを繋ぎ止めておくことはできなかったのである。
切れた蔓から先の葉っぱの茂みが、重量のある瓢箪を落としてみるみる枯れて萎んでいった。

こちらの言うことはあまり聞きもしないでおいて、「そんなことどうだっていいじゃないか」と切って捨てる。それでこちらを庇っているのだ。悩みが深みに堕ちないようにしているのだ。
「どうだっていいこと」のシーソーの反対は「どうだってよくない」である。どうだっていいことが、遊園地のシーソーの片方を下りてしまうと、反対のサイドの「よくない」は砂場にドシンと尻餅をついてしまうことになる。ということは、「どうだっていいこと」の概念が、シーソーの安定を保っていたということである。

この世の一切は空だから諦めよと言っているのは仏教である。捨てられないものなどない、と教えているのである。しがみついておかねばならないほどに大事に保存しておく宝物もないかわりに、しがみついておかねばならないほどに大事に保存しておく悩み事もない。つまり、「どうだっていい」のススメである。信心深い仏教徒はそれでいい。三郎の信心はしかし深くないのだ。シーソーの対極にそれを乗せておいて、バランスを取ることに活用をするくらいにするのが関の山だ。

三郎はまだ悩みを保持している。梅雨も明けたのか、緑陰を創っている山桜の大樹のあたりで、夏蝉が鳴いて鳴いて鳴き止まなくなった。「そんなことどうだっていいじゃないか」の重量が、この2,3日、少しばかりシーソーのもう一方の乗客より勝ってきているようなのだ。
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夢という現実が、現実の夢の中にある

2014年07月11日 09時48分31秒 | Weblog
父の夢を見た。父と一緒に海水浴に行って、波が寄せる浜辺に父がどかりと座っていて、その膝の上に泳ぎ疲れた三郎が乗っていた。「泳げるようになったじゃないか、三郎」 夏の強い日差しに輝く父の白い歯が、上下揃って丸見えだった。三郎は下を向いて照れているのに、父の笑い顔が見えていた。どうしてだか海水パンツを履いていない。普通のパンツだ。少年の頭は丸刈りだ。三郎は不器用だったから、海に連れてこられて父に泳ぎの練習をさせられたのだろう。上手に泳げたはずはない。それなのに、泳げるようになったじゃないかと父が褒めているから、下を向いているのである。

夢というのは眠っている脳の中の生活だから、現実ではない。現実ではないが、この朝三郎は目が覚めてからもそこにほんとうに父がいるような気がした。いつまでもそんな気がした。夢という現実の中で、父と会ったという満足に浸った。父は若い頃に水泳選手だった。プールサイドの写真を何度か見る機会があった。スポーツ好きの父はなかなかのハンサムだった。三郎は、誰の子どもかと疑われるほどに不器用で、ソフトボールの球もドッジボールの球も逃げてばかりだった。それを恥じていつも小さくなっている少年だった。これはいまも変わっていない。老人になっても器用さはない。

父が亡くなってそろそろ40年近くが経とうとしている。それなのにまだ父は我が子を思って夢という現実の中へ分け入ってきて、何かと心配をしている風なのである。三郎は、学校を終えたときに就職が決まらなかった。特技がまるでなかった。就職試験というものを受けに行く勇気すら欠乏していた。それがその後何度も夢になって三郎を苦しめた。職には就いたがもめ事ばかり起こした。その度に父がやってきて枕元に立った。三郎はこれを歓迎した。躓きがたびたびあった。こころの病気も訪れてきて内向きの彼を苦しめた。よくまあこれで生きてこられたものだと三郎はしみじみと思う。甘えっ子だったかもしれない。それでひ弱に育ってしまったのかもしれない。

三郎はしかしそれでよかったと思っている。父の笑顔に会うことができるからだ。こんなに長い間、もうすぐ死者の国への旅に発っていこうとしているという今頃までも、優しい父を見上げていられるからである。いや、よくはないかもしれない。かっこよくないのである。男らしい男に成長を遂げていないのである。優しくしてくれる人への依存心が強いばかりで、夢の中ですら自立ができていないなんて大人げないのかもしれない。
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ラブコールは理想社会を創る

2014年07月11日 09時35分37秒 | Weblog
「何か
でかいことをしなくちゃならん」
「ということでもないのですなあ」
「そのようですなあ」
「絶対に褒められるようなことを
しなくちゃならん」
「ということでもない」
「争って蛙賢者を装うこともない」
「ない」
「おれたちの棲む泥田圃は
そんなことをしなくてもいい」
「いいところのようですなあ」
「好きだよお」
「大好きだよお」
「ただ村の娘に繰り返し繰り返し
ラブコールをしていればそれで
万事が巧くいくんですからなあ」 
「理想社会に棲んでいますなあ」
「まったくですなあ」

雨が田の面を叩き付けるが
元気雨蛙たちは平気だ
オタマジャクシがうようよして
大人の会話を取り囲み
楽しげに聞いてうなづいている

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