<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

シャボン玉輸送機に乗って次の明るい星を目指す

2014年07月16日 17時03分14秒 | Weblog
三郎はクレヨン水彩画を描くのが好きだ。下手で幼稚な絵だ。三郎の幼稚さは小学生なみということがこれでわかる。



クレヨン水彩画というのは、クレヨン画の一種だが、筆を使って水を塗るとクレヨンは解けて、水彩になる。塗り重ねて独特の色合いを出すこともできる。



植物を写すこともある。花を登壇させることもある。少女を絵の中に連れてくることもある。でも、夢中にさせるのは仏陀の絵だ。仏陀の絵を描いているときは仏陀と向かい合っていられる。



ところが、仏陀を描こうとして、いざ出来上がってみるとまるで違うということがある。色っぽい人間になってしまっている。欲深な眼をしていて、これではとても仏陀とは言えない。そういう作品を前にして、へたへたと座り込んでしまうことがざらだ。



欲深な人間の眼をしていないときには、あまりにも漫画チックで幼稚で、これも威厳が備わっていない。だからなかなか気に入らない。



仏陀は超越者だから、なかなか三郎ほどの人間にはつかまらない。それでも描く。性懲りもなく描く。(と言いながらこの頃はもうすっかりお手上げになっている。無能を恥じて引っ込んでいる)



それで、仏陀そのひとではなく、三郎を描くことにしている。死出の旅をしている三郎だ。シャボン玉の表面の膜に覆われるようにして三郎のスピリット(霊体)が宇宙遊泳している。シャボン玉は宇宙の風に吹かれゆらめいている。遙かな下界には緑なす山脈が連なり青い美しい海が光っている。



一人では寂しいからと言うので、三郎のいとしい人、絵美さんを同乗させていることもある、もう人間を離れたという印に、三郎にも絵美さんにも額に第三の眼が描かれている。第三の眼は緑色をしている。



三郎は、死をもって終わりとしていない。連続していると考えている。空間的にも時間的にも連続しているはずだと思っている。もっと明るいところへもっと明るいところへと進んでいる。進歩は止まない。決して止まない。進歩しようとする者には停滞がない。三郎は次の星を目指す。



シャボン玉が輸送機だという点は、心細い。これでは数万光年先にある憧れの国土へいつになったら到達できるのか。ゆらりゆらりゆらりゆらり。これを楽しんでいるとしか言えない。しようがない。そこもまた三郎の幼さのあらわれだろう。
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死を暗く冷たくしてはならない

2014年07月16日 14時38分43秒 | Weblog
平山郁夫画伯の「入涅槃幻想」の絵を見ると息が止まってしまう。釈迦が涅槃にお入りになってしまったので、弟子たちがその四周をぐるりと取り囲んでいる。弟子たちの顔は見えない。みな悲嘆に暮れて暗澹としているので影絵そのもののように漆黒だ。入涅槃の仏陀は仰向けで、光の黄金を放っている。まるで金色の仏像である。その上空を白い鳩が無数に舞っている。涅槃図は、さまざまな動物たちもやって来て悲しみに沈んでいるが、この絵にはそれは描かれていない。その代わりに仏陀の傍らにも弟子の足下にも白い鳩が集まって来て別れを惜しんでいる。



般涅槃(はつねはん)はサンスクリット語のパリニッパーナの音訳で、完全な涅槃(ニルバーナ)を指している。ニルバーナは煩悩の火か消えて、絶対的な静寂、寂滅に達した状態のこと。滅度に至る、とも言う。仏陀の死は無余涅槃(むよねはん)とも呼ばれる。煩悩のこころも肉体も余すところなく残すところなく、ということであろうか。完全に燃焼し終わったので、寂滅が完成するのだ。燃焼を果たしたので、もはや後ろを振り向かなくともいいのだ。前を向いていさえすればいいのだ。



仏陀の死は暗くない。暗いところへ行くことではないから、暗くない。明るい。燦々として光輝く死滅である。明るいところへ行くのだから、黄金色である。人間の死は暗い。冷たい。不安と疑念にかきくれているから暗い。



仏陀に成るということはこういうことなのだ、ということを画伯は示したかったのではないか。仏陀の入涅槃は知恵の光、慈悲の光になるということだから、光輝く死滅である。



死を暗くしてはならない。冷たくしてはならない。煩悩の目でもって曇らせてはならない。迷妄の目でもって冷たく凍らせてはならない。



死は、終わりであって始まりである。煩悩の終わり、肉体の終わり、無明の終わりであって、大脱出の始まりである、知恵の世界への飛翔である。この故に第一次到着点の到着であって、第二次到着点へ向けての出発である。進む者は、とどまってはいないのだ。



仏教ではしきりに成仏が説かれている。人を死んで仏に成ることである。迷妄の連続を断ち切って、明るい大きな知恵に輝かされることである。無明の人を死んで仏陀に成って生きることである。そういうことをこの「入涅槃幻想」の絵がわたしに教えてくれる。
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隼人瓜にはぎょろりの目がついている

2014年07月16日 14時21分34秒 | Weblog
隼人瓜には目があるのではないかと僕は思ってしまう。青竹を組み合わせて這って登る棚を高く編んであげたら、そこを勢いよく蔓が這い上がって伸びて行く。雨降りくらいは障碍にはならないらしい。むしろ降る雨を全身に浴びながらつややかにして健康そのものだ。蔓の先端には髭が付いている。長い髭だ。これが触覚になっているらしい。目というのはこれだ。どっちへ向かっていけばいいかをこれで察知する。棚の遙か上方に山茶花が葉を茂らせている。二階屋根を越すくらいはある大木だ。これが枝葉を円く広げている。この一番の至近距離に向かって、蔓の髭が伸びていく。そしてやっと今朝それを捕まえたのだ。これからは一挙にそちらの方角へ勢いを付けて行く。そして山茶花の大木を丸呑みにする計画だ。隼人瓜はもちろん植物である。人間の目のような目があるわけではないが、蔓の髭の先端に幾つもの目玉が無数についていてサーチライトを浴びせているように見えてくる。たかだか植物だなんて侮っちゃいけないよね。目があるということはこころもあるということだ。こころがあるということは、意思があるということだ。そうやって元気いっぱい縦横に蔓葉を茂らせて生きるのを楽しんでいるということだ。やるなあ。やるなあ。冬が来る頃にはこの隼人瓜は万石ショウケに2~3杯くらいは大きなごろんごろんした実を実らせる。タフなんだ。実にタフなんだ。
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(自力を励んで)助かることもいらなかった

2014年07月16日 10時06分38秒 | Weblog
助かってみれば
助かることも
いらなかった



これはご本で読んだことばです。妙好人のことばだったのではないかと思います。



一生涯、「助けて助けて」とわたしたちは叫んで暮らしています。SOS信号を四六時中発信しています。



助かっていないという不安の渦が渦巻いているので、そういうふうに魂が救済をほしがっています。



その上、これから先、死んだ先にも、どんな助けもなく路頭に迷って、迷って迷っているのではないかという新手の不安をも抱え込んでいなくてはなりません。



仏陀の胸に抱きとられているわたしをイメージすると幾分かこころが安らぎます。仏陀の名をとなえます。南無をはかります。帰命を口にします。



帰命尽十方無碍光如来に手を差し伸べます。十方ことごとく障礙なしのあまねき光に救われんとして渦の中から手を差し伸べます。



そうやって助けられます。助かってみれば、なあんだ、助けてもらうこともいらなかったんだ、はじめから助かっていたのだという明るい大きな頂きに出ます。ほっとします。



もがいたり、あがいたりしなくてよかったんだ。無駄な努力などはしないでよかったんだ、と。



初めから助かっている。最初から最後まで助かり通しである。そこへ来る。最後のその先も、やはり変わらず、助かったままでいる。



歎異抄にこうある。「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて・・・・すなわち摂取不舎の利益(りやく)にあづけしめたまふなり」

摂取とは、救い取るということである。不舎は捨てないで抱き留めているということである。利益(りやく)は安心と置き換えてもいいかもしれない。

弥陀は阿弥陀仏。すなわち尽十方無碍光如来。誓願不思議は「思議することさえ不可能な」ほどの誓願。わたしを救済するという誓い。約束。

「助かってくれよ」というのが弥陀の誓いである。助かるように条件整備を整えているから、どうか助かってくれよ、と言い含めてくれている弥陀仏がいる。



助けて下さいとこちらが叫ぶから助けてくれるくらいの仏ではなかったのである。無条件である。叫ぼうと叫ぶまいと助かっているのである。



「念仏者は無碍の一道なり。・・・・わがはからいにて行ずるにあらざれば非行といふ。わがはからいにてつくる善にもあらざれば非善といふ。ひとへに他力にして自力をはなれたるゆえに・・・・」と続いている。



すべてはそうせしめられているのである。この力(ここでは他力と名称してある)をおのが自力で覆すことはできない。

わたしが善を行じたくらいでそこから道が開けるというのではなく、無差別に無条件に初めから助かる道(無碍の一道)を歩いているばかりである。



わたしをそうせしめている大いなる力がある。そこへ到達してみると、わたしの力でどうにか切り開こうとしていた行すらも空疎になってしまうのである。



峯の色 谿の響きもみなながらわが釈迦牟尼の声と姿と   道元禅師

峰の緑の木々の色はそれをそうせしめている力の、その色であり、谷川の水の潺はそれをそうせしめている力の、その声である。



わたしをよろこびのわたしたらしめている力が充満しているのに、強いてことさら、賢者を装って、力の海は干し上がっていて干からびているというように見ないでもいいのだ。



わたしを生かそう生かそうとしている大いなる力。それをそこに見る。星の光としてそれを見る。空海は暁の明星にそれをみて全身輝いた。輝いて輝いて、歓喜した。



「歓喜宇宙」

それをそこに見る
星の光としてそれを見る

それをそこに見る
海の潮の満ち引きとしてそれを見る

それをそこに見る
桔梗の白い花の一輪としてそれを見る

それをそこに見る
わたしのそばにあなたがいることでそれを見る

輝いて輝いてそこに歓喜している水の
せせらぎとしてそれをそこに見る

わたしを安らげんとしている力の宇宙が
そこにあって
それをそうせしめていることの歓喜に
ひたすらひたすらひたっているばかりの宇宙
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その方に抱き留められているわたしであった

2014年07月16日 09時27分39秒 | Weblog
ふっと思ったことがございます。どうしてそんなことを思ったのやらわかりませんが、ええ、ふっと思って、ああ、そうだったな、それでよかったんだ、それより以上の幸運はなかったはずなのに、まあまあそんなことはちっとも思い浮かべないできた、どうしていたんだろうと、そこまで考えが至り着いて、そしてやにわに安堵を覚えたのでございます。論に根拠もなにもありません。ただふっとの合間の落ち着きでした。

「わたしはこの宇宙に生まれていたんだ」ただそれだけの発見です。アクセントが「宇宙」というところにあるのか、「生まれていた」というところにあるのか。宇宙以外にではなく、この宇宙に生まれてくるという巡り合わせだった。これは至って幸運な出来事であった。その幸運な出来事の当事者がわたしであったという、ちょっとした驚きの感情がわき起こって来たのでございます。

それまでわたしが何処に居たのかは存じ上げません。でもわたしは何処かにはいたはずです。そしてここに来ることになったのです。こことはこの宇宙です。宇宙の全体です。固有名詞があるかもしれませんがわたしは残念ながらそれを知りません。親しみを覚えていなかったのでしょうか、それともただの無知蒙昧だったのでしょうか。現在地の固有名詞くらいは確かめておくべきだったのに違いありません。迂闊でした。

宇宙の全体がどれくらいの規模なのか、これも知りません。わたしもまたその宇宙全体と同じくらいの面積、体積、容積を持っている存在であれば、1対1ですから、相対しているはずです。向かい合っているはずです。だったら、相手の名前くらいは尋ねておくべきでした。わたしは今は小さくなっています。小さくなって宇宙の片隅の銀河系宇宙の、そのまた片隅の太陽系の、そのまたまた片隅の青い水の星、地球に住んでいます。これは縮小をした姿です。わたしはわたしの面積、体積、容積が自由自在に変化変容できるので、今は仮に小さく萎縮しているだけのことだろうと判断しています。

それ以上の幸運はなかった。そこで思いが対流しています。ぐるぐる回っています。

わたしはもうすぐこの青い水の星を立ち去ろうとしています。なんのこともないような平凡な日々の生活に明け暮れています。いや、平凡以下の、ほんとにまあだらしない、ぐうたら生活をしています。おれはここへ何のために生まれて来たのだろう、おれはここででは何をしたのだろう、何か高い評価をもらうようなことを一つでもやったことがあるのだろうか、何をしたのなら大威張りでここを去って行けるのだろう、などと臨終間際の酔狂みたいに、あれこれ考えては不安を囲っています。

そうしてふっと思ったのでございます。そんなことより何より、わたしはこの宇宙に生まれて来ていたんだ、これ以上の幸運はなかったんだ、と。生まれて来たということだけの価値でもうびくともしなくていい、そういうふうに思えてきたのでございます。これは、わたしが初めて「宇宙に存在していることの価値」を見いだしたということでもあろうかと思います。まるではじめて、美しい女性をそこに認めて、恋を覚え、ときめいた若い日のように、わたしの前に大きく宇宙がその美しく凜々しい顔を見せてきたのでございます。その方に抱き留められているわたしであった、ということがわたしを束の間安堵させたのでございます。
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