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<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

やさしくやさしくわたしに寄り添って

2014年07月22日 16時11分09秒 | Weblog
風が
わたしを尋ねてきて
撫でて通る

風の指が
わたしの頬と胸と背中を
撫でて通る

わたしをいとしく思っているのは
風であって
あの人ではない

風が柿の若葉の下の
緑の陰へ来て
やさしくやさしくわたしに寄り添って
やがて過ぎて行く
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先々にゆたかにさきわいますように

2014年07月22日 13時28分45秒 | Weblog
和菓子の銅鑼(どら)焼きには粒餡が納まっている。粒餡には白餡と赤餡とがある。銅鑼の形をした皮を2枚が餡を包んでいる。この銅鑼の形の皮の原料は小麦粉と卵と砂糖である。これをほんのり狐色に焼いてある。甘い。三郎は白餡を好んで食べる。血糖値の高い者は避けた方がいいのに、隠れたようにして食べる。握っていた指に砂糖が残る。バターを使う洋菓子の方が栄養度が高そうだ。

銅鑼は金属製の打楽器である。お盆の形をしていて円い。紐でこれを吊り下げておいて桴(ばち)で叩いて鳴らす。仏教の法要などにもこれが打ち鳴らされる。けたたましい金属音がするので、お経を聞きながら居眠りしている者は目が覚めてしまう。船が出るぞうというときの合図にも使われる。民俗芸能や村祭りなどにもこの円盤のような銅鑼が鳴る。

三郎の今日のおやつはこの白餡銅鑼焼きだった。その上コーヒーを添えてもらった。で、公然と、つまり隠れないで、これを楽しめた。残り4分の1は、さすがに、控えておいた。いやいや、こういう豪勢なおやつなどは滅多にないことである。これには訳があって、今朝の空腹時に、約1か月ぶりに血糖値を測定したのである。その測定値が100mg以内に収まっていたので、お許しが出たというわけである。

糖尿病の治療には食事療法のほかに運動療法がある。運動をして血糖値を下げるのである。16時になったら三郎は外に出る。そこから2時間ほど畑の草取りに従事することになる。それからサイクリングをする。大川を渡って次のにある白角折(おしとり)神社へ行く。祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)だ。熊襲征伐にここを通られたと案内板に書いてある。深閑としている。

神社はこんもりと木々が茂っている。樹齢1000年の大楠もあってこれには注連縄が張ってある。三郎は仏教徒を自称しながら、神社にお詣りして払い給えへ、清めたまへをやる。柏手(かしわで)を打つ。これで自浄其意(じじょうごい)をしたつもりになって清涼を味わう。そしてさらに幸(さきわ)いたまへを告(の)る。国幸いたまへ、民幸いたまへ、神々幸いたまへ、宇宙のおいのちさま幸いためへと続ける。これが三郎の祈りの時間だ。

「幸う」は先々に渡ってゆたかに栄えることである。そらみつやまとの国は言霊(ことだま)のさきわふ国。平和な祈りの豊かな国である。平和でなければ午後のおやつの時間が設けられることなどはあるまい。念のために申し添えておくが、明日も白餡の銅鑼焼きが食べられますように、という祈りは、2礼2拍手の「幸う」条項には含まれてはいない。
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断裂はない。裂け目はない。

2014年07月22日 12時48分06秒 | Weblog
それをそうせしめている力がある。風が吹いている。風が向日葵の大輪を動かしている。夏の日が照っている。



それをそうせしめている力があるので、それが存在し得ているのである。



それをそうせしめている力を、さらにそうせしめているさらに大きな力がある。



そのさらに大きな力をそうせしめているさらにさらに大きな力がなければ、さらに大きな力は存在し得ないことになる。



こうやって、大きな力というのが水の波紋のように広がっている、何十にも何百にも何千にも。



もちろん、この波紋の中心にいるのがわたしである。波紋を広げている力がわたしに授けられているのである。



わたしをわたしたらしめているには、無限大の無限パワーが拡大充満していなければならない。



わたしという海の、浜辺にこの無限パワーの波がひたひたひたと打ち寄せている。



ひたひたひたと打ち寄せてくる無限パワーをひっくるめて他力と呼称する。打ち寄せて帰って行く力を自力と呼称するが、どちらも、それをそうせしめられている力の変形である。



わたしがここに生まれてくるにもこの無限大パワーによってである。わたしがここを死んで去って行くにもこの無限大パワーによってなさしめられていくのである。



断裂はない。裂け目はない。わたしを歩かしめて行く一本の大きな大きな他力の道が繋がっているだけである。

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最後は誰もがめでたしめでたしになる

2014年07月22日 10時58分11秒 | Weblog
おれのようなぐうたらぐう助は、この世に生きている価値がない。と思う。おれのような醜男は美女の前には立てない。と思う。己を恥じて、卑しんで蔑んで、悶え苦しむ。

かと思うとその反対側にするっと来て傲慢になっている。こんなまずいものが食えるか、と言い放っている。おれにはもっと豪華な椅子を提供しろ、おれにだけは1万人分の富を用意しろ、おれだけはいつも幸福の絶頂に立たせておけ、と誰彼構わず怒鳴っている。

右へ行ったり左へ行ったりで足場が揺れる。観覧車に乗っているときのように上下に移動する。

人を下にしたがる。己を上に置きたがる。おれは偉いぞといって吹聴して回り出す。

人を拝まずに人に拝まさせる。人を仰がずに人に仰がせる。それが失敗すると途端にじめじめし始める。ぐうたらぐう助になる。もう人間止めた、になる。

卑下慢(ひげまん)というのも慢心の一つである。増上慢(ぞうじょうまん)というのも慢心の一つである。いずれも傲慢心である。奢りと高ぶりと邪(よこしま)の馬の脚である。



おれは偉いか。それとも偉くないか。その物差しがどうしても捨てきれない。

そこにいる人を偉くない人だと見て、見くびっては偉がり、適わない奴だと判断して小さく萎縮する。天秤棒(昔これをチキイと呼んでいた)の向こうに何を乗せているか。こちらの重量とちょうど釣り合うのは何か。釣り合っていればそこで束の間の安定安心に慰撫される。

孔子さまは社会道徳、規範規律をお乗せになられた。老子さまは無為自然の無上道を天秤棒の反対の対になさった。釈尊は宇宙の法(ダンマ=それをそうせしめているパワー)を対極に置かれた。

そうするともう「おれが偉いか、偉くないか」は問題とならなくなった。敵対する相手ではなかったのである。



孔子さまでもなく、老子さまでもなく、釈尊でもない三郎は、ではどうか。

生滅滅し已(おわ)って、寂滅(=寂静=涅槃界)を楽とす。はいこれまでよの死が万事を解決してくれる。

生死ともどもが過ぎ去ってそこに寂滅が訪れて来る。これで段落がつく。偉いか偉くないかの煩わしさから解放される。彼はやっとお終いにこの境地を楽しむ。

(ああ、もう何でもすんでしまった。あれやこれやの評価判断はどうでもよくなったあ! これは俗人の行く着く寂滅の境地かもしれない。もっと爽やかなものかもしれない。)

孔子さまでもなく、老子さまでもなく、釈尊でもない三郎にも等しく楽(太平楽)が贈与されることになるのだ。めでたしめでたし。

**

わっはっは。起承転結になっていないね、この雑文は。ま、いいじゃない。誰にも、つまり三郎にも、最後がめでたしめでたしになるんだったら。偉くない三郎も無条件で生死ともどもを死んで行けるのである。

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仏陀と等しき者として

2014年07月22日 09時15分39秒 | Weblog
ここは無許可である。無許可なところである。



それともすでに許可を得てきているということか。



わたしが、ここに生まれて来て、それ以来では、許可申請をしたこともない。



所場代を払わなければ営業禁止、立ち入り禁止というところも多いけれども、ここはそうではない。



自由だ。自由閲覧ができる。鑑賞ができる。それを写真に撮ることも許される。



ほんのり赤い桔梗が咲いた。ほんとにほんのりだ。ほんのりの色香だ。ぞくっとするほどのすがしさだ。



草丈は伸びないで、三郎の膝のあたりまでで、そこへ数十本の茎が四方に広がっている。



明恵上人は、野の花を見つけていきなりそこへしゃがみ込まれて、それから暫く経って、花の上に涙をこぼされ始めた。付いてきた小僧さんが、上人さまは何か悲しいことでも思い出されたのだろうかと案じた。そうではなかった。



野の花は竜胆だった。草藪の陰に空のような青を放っている。



見てはならないものを見てしまった、ということがある。明恵上人は、自分のように罪業の深い悪人は、その美しいものを見るだけの権利も資格も有してはいないのに、それを見ているという天の許しのようなものをそこにお感じになられたのではないか。



そこまで謙(へりくだ)ることはあるまい。あるまいと思う。そかしそこまで謙虚に謙遜になっていなければ、如実に己を見ていなければ、天の贈与の美しいものを美しいと思えないのではないか。美しいものを見て即ちよろこびに染まるということはないのではないか。



仏陀と等しき者として、わたしに応じているのである。仏陀ではないわたしを仏陀と等しき者として、竜胆も桔梗もわたしに応じているのである。



罪業の深い悪人のわたしの前に来たら、花房を閉じてしまっても、枯れてしまっても、それを責めるだけの傲慢はもはやわたしにはない。それだけの強情はさすがに老いて衰えている。



しかし、三郎が桔梗の前に来てもただ薄紅の色香を放ってやさしく迎えているきりである。差別(しゃべつ)がない。花には差別のこころがない。



花園の園主であれば、「悪人入るべからず」「貧者入るべからず」「無知蒙昧者入るべからず」「徳積まざる者入るべからず」の立て札を立てて、除外する権利を有している。



それがそうされていない。立て札などはどこにもない。無許可である。それを美しいと見ることが許されているのだ。



人間はそうはいかない。卑近すぎようが、美しいモデルさんが被写体になっていれば相応の代金を支払わなければならない。入り口には当然入場禁止の立て札が立つ。



花を見るのは無条件である。あなたはだめだということがない。見たから見物料を請求されるわけでもない。



美しいものをただ美しく見ていいのである。この世は美しいところだ、如来の蓮華蔵(れんげぞう)世界だということを信じる。それも許される。



明恵上人は野の花に手を合わせて礼拝された。但行礼拝(たんぎょうらいはい=礼拝するだけの修行)は誰にでもできる。花の無差別心を感得してこれを礼拝する、これは仏陀の道を歩まんとする者の易行(いぎょう)である。
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力を満たしている早苗田

2014年07月22日 08時32分31秒 | Weblog
ナツアカネが水田の上を群れ飛んでいる。アキアカネに会うのは初めてだ。こちらを導いているようにして飛び交う。田圃に水が入る音、田圃から落ちていく水音がする。風が戦ぐ。稲の早苗がそろそろ分蘖(ぶんけつ)し始めている。株が膨れあがってきて力が籠もっている。

お百姓さんでもないのに、こうやって稲田が力を満たしているのを見ると、まるで自分がそこから元気を吸い取ったようになる。心弾む。嬉しくなる。三郎はこの水を張った田圃の中の細い小径をすいすいサイクリングして過ぎる。

不用意に口を開けてでもいると空中の小さい翅虫が口や目に入り込む。見えないけれども、これがうようよしている。互いに生きているもの同士だ。疎外してはならない。口を結んで目を半眼にしてペダルを踏む。

畦道には緋の色のヒオウギが咲いていた。空が真っ青だ。途中、蛇を見つけた。蛇が人間を見つけて恐がって道の真ん中でとぐろを巻いて身構えた。まだ大人になっていない蛇だった。互いに生きているもの同士だ。他者を恐れしめてはならない。不安に落としてはならない。三郎はできるだけ離れて通り過ぎる。

三郎は老い衰えているが、夏はこうしてどこもかしこも元気だ。三郎には自慢するものがこれっぽっちもないが、大地や大地に生息する植物や昆虫が元気旺盛であること、健康を謳歌していること、これは、三郎が双手を挙げて自慢していいことのようだ。
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