<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

その秘密はわたしだって知っています

2014年07月18日 16時16分24秒 | Weblog
「あなたが知りたいことはわたしが知っています」
傍らに立っている向日葵がそう言う
「その秘密はわたしだって知っています」
高い位置から夏空がそう言う

「それはわたしが証明して見せましょう」
昼間の油蝉はみんなそう言う
「わたしを見ていたら疑問の糸玉が解けますよ」
森を歩くと森がそう言う

「信じられないことがやがてあなたにも起こりますよ」
揚羽蝶が飛んできてそう言う
「遠くの遠くのその遠くまで繋がり合っていますからね」
川の小石が唇をこしらえてそう言う

「心配なさることはありませんよ」
風がわたしの袂へ入り込んで来て落ち着いてからそう言う
「恐がることなんてなんにもありませんよ」
夕日が追いかけてきてそう言う

わたしの人間の小さな耳へ
ことばたちが宇宙の潮吹き穴から噴き上がって来て
次から次へとそう言う
わざわざそれぞれ固有の形を取ってわたしに見せて
親切の権化になって
そう言う

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呼べば唇に力が戻ってくる

2014年07月18日 15時24分56秒 | Weblog
あ・さ・が・お。と書くとこの4文字が四角の井戸になる。そこへ指先を棒にして、その井戸のことばの石に当てると深いところから地下水が沸いてくる。見下ろすとぼこりぼこりぼこりの水音がする。

朝顔は花を開く。カルデラ火山阿蘇の、山麓の伏流水のように。湧水は小石を蹴って盛り上がって見事な花の形になる。そしていつまでもそこに咲いている。

ことばが沸いてそこが泉になって、水の道の川ができる。もちろんこの水は飲み水にできる。飲めばたましいは元気を取り戻す。

ことば。ことばは水である。伏流水である。地下を通って、伏して通って、通って流れて、わたしの胸のあばら骨の隙間から沸きだしてくる。

ことばが朝顔なのか。ことばが朝顔を呼び寄せたのか。朝顔がことばという血液を体内に流したのか。青空のような花弁の色が青空を吸いこんでいる。

あやしいことは起こらない。理に適わない、あやしいことは起こりっこない。そのはずなのだが、結構これが起こる。手の平がじんじんする。じんじんしているときには、そこが発電所になっている。発電した電力は送電ができる。これにことばを乗せる。

ことばには力が籠もる。不思議な力が籠もる。不思議は<思議すること能わざる>という意味と、<思議する必要のない>という意味とが織り込まれている。力は向こうの方からこちらの方へと流れ込んで来るのだ。思議を超えているのだ。

人間としてこの地に送られては来たがそれで支援が断絶したわけではないのだ。力はそれを証明してみせる。言葉に乗ってやってきた力が、湧水になる。伏流水になる。溢れて流れて川を作る。繋がっているのだ、大元と。力の発してくる大元と。呼べば必ずその力が唇に戻ってくるのだ。

世界が平和でありますように。ことばは人の祈りを借りて祈る。戦を起こさず万民が平和に生きていけますように。だからことばは祈りだ。祈りによってたましいが姿勢を正すのだ。

わたしはあなたが大好きです。わたしはあなたをここへ欲しがっています。唇のことばを海にぽとぽとと落とす。雫にして落とす。大空の白い雲をことばの雨にして落とす。ことばは大海を漂ってやがてあなたの浜辺に打ち上げられる。
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才能は人類の共通遺産だから貸し出せます

2014年07月18日 11時45分00秒 | Weblog
ミューズ神はギリシャ神話で人間の知的活動、特に詩や音楽の活動を司る9人の女神たちで構成されている。彼女たちに気に入ってもらわなければ詩は書けないし音楽は奏でられない。気に入ってもらったら、彼女たちは天空から翼を広げて地上界に下りてきて、詩人やミュージシャンの肩に止まる。そこで耳打ちする。するとそこで天才的閃きが浮かぶことになる。ペンはひとりでに走り出して詩を書き、楽譜が生まれることになる。

ではどうやって気に入られたらいいか。ミューズ神は女神だから、男前でなければならない、としたら三郎などはたちまち除外されてしまう。それじゃ困る。女神は9人も入るから、蓼食う虫も好き好きがあるかもしれない。醜男でも勇気があればいい、とか、柔和忍辱のこころを隠し持っていればいい、とか、誠実であればいいとかの例外がついているかもしれない。しかし、それでも三郎には該当しない。醜男であってしかもその上勇気もからっきし持ち合わせてはいないのである。さあ困った。

他の条件はないか。一人くらいは変わり者の女神もいていいではないか。それがあるのである。女神たちはそれぞれに美しい。そこが目の付け所である。その美しさにうっとりしている者をこよなく愛してくれるのである。とりわけ顔が美しい女神、目が美しい女神、長い髪が美しい女神、長い足が美しい女神、肌の色が美しい女神、身体のラインが美しい女神、お尻のふくらみがふっくらとして美しい女神・・・・などなどである。もちろん女神であるから全体的に整っていて美しいのだが、とりわけ美しいところを見逃さないで、そこにうっとりの目を向けてあげられたらそこでケリがつくのである。

三郎は二の腕がとりわけ美しい一人の女神を見つけて、うっとりした。夏である。夏空が広がっていた。積乱雲が巌をなしている。そこにたまたま遊山に来ていた一人の女神を見いだして呆然となった。天空でもやはり夏ともなれば暑い。女神は薄物のシルクを肩から足下まで流れるようにして身に纏っていた。胸のふくらみがが透けて見えた。しかし、胸よりも何よりも二の腕がたまらない魅力を放っていた。放っている魅力をキャッチしてくれる人間が、彼女たちも好きなのである。

彼女はうっとりとした目をしている三郎の肩へやってきて翼をやすめた。そして耳元で「わたしはあなたのものよ」と囁いた。これで三郎の詩才は目覚めたのである。三郎はやにわに浮き浮きした。そわそわした。興奮が階段を上り始めた。自信のようなふわふわしてものが膨らんできた。三郎は詩を書いた。ことばはスノーボードを履いて滑った。書き留めるペンが追いつかなかった。その詩を読んでうっとりした。三郎が書けるような詩ではなかったからである。

詩才などというものはしかし三郎の特権物ではない。大方誰の胸の中にも宿っているのである。それが目覚めを起こすか起こさないかだけの違いである。いやいやもっとはっきり言えば才というものは人類共通の遺産なのである。能力というものは無料レンタルができるのである。これはどのジャンルにも当てはまる。天空の才能図書館に行って貸し出し申請書に名前を書いて差し出せば、借りだしてきて自由に使ってもいいものなのである。

だから女神が三郎の肩に翼を休めて囁いた殺し文句「わたしはあなたのものよ」というのは、「わたしたちはあなたがたの共通の味方なのよ」「この世界の才能もまたあなたがたの共通遺産であるからどれだけでもたくさん自由にお使いなさい」というおとでもあったのである。
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