「こんにちは~あ」と言うと「こ~んにちは~あ」と返してくれる。人ではない。山の谺だ。それでも手応えがある。さみしくない。受け入れられているという安心がにじむ。
*
仏陀に挨拶をすれば、こうやって、返してもらう。そうすれば嬉しいだろう。谺ではない仏陀は、もしかしたら、三郎の名前すら呼んでくれるかも知れない。
*
お釈迦様以外は、しかし、法身仏である。法は、宇宙の法。宇宙の真理で、人ではない。仏像が人の形をとるのは、方便である。われわれ人間が親しめるために、、近づいて行こうという発心を催させるために、そうした人間の形に変身をしていてくださっている。そこに、こじんまりした霊格体や、手で触ることのできる人格体があるわけではない。あるとすればそれはそれを信仰する者の意識の中においてであろう。
仏陀を呼ばなければ仏陀の救済にあずからない、というのではない。仏陀の名を呼ぼうと呼ぶまいと三郎の救済の、真っ只中にいるのが仏陀である。
三郎の救済のど真ん中に宇宙の全体がある。宇宙のハタラキ、パワーがある。宇宙のパワーの中に三郎の救済があるどころではないのだ。
*
したがって、仏陀の名を呼ばずとも、仏陀のハタラキは働いているのである。
仏法というのは、一つは「仏陀が説かれた教え=説法」であるが、もう一つは「仏陀が説いた宇宙の真理そのもの、宇宙のエネルギーそのもの」でもある。これが三郎に働きづめに働いている。
三郎を生かしている力が仏法、あるいは仏陀であるから、空も海も山も川も仏陀なのである。宇宙中にあるものみながこぞってこぞって、三郎を生かし続けている。物質も非物質も、人も人の形をとらないものも。
三郎は、心配顔をしなくともいいのだ。不安がらなくともいいのだ。安心しきっていていいのだ。
それらみなが呼び合って呼び合っているのだから、三郎がわざわざ三郎の名を呼んでいる谺を聞こうとしなくとも、耳を澄ませば、救済の中心にいる三郎の耳には聞こえて来ているはずである。
*
三郎がよいことをした、悪いことをしたという事実があったとしても、仏陀の法のパワーはそれの何万億倍、何億兆倍もでかい。三郎が能力を発揮して大仕事をした、あるいは無力を泣いて小さくなっている。そのどっちだっていいのだ。そんなことに左右されるほど仏陀の法は狭くはない。
*
それでもなお、三郎はやっぱり「こんにちは~あ」を言う。山に向かってこれを発話すれば同じように返ってくる。
人に向かって挨拶をすれば、人もこれを返してくれる。三郎はこれでこころが安らいで機嫌を良くするという具合だ。
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仏陀に挨拶をすれば、こうやって、返してもらう。そうすれば嬉しいだろう。谺ではない仏陀は、もしかしたら、三郎の名前すら呼んでくれるかも知れない。
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お釈迦様以外は、しかし、法身仏である。法は、宇宙の法。宇宙の真理で、人ではない。仏像が人の形をとるのは、方便である。われわれ人間が親しめるために、、近づいて行こうという発心を催させるために、そうした人間の形に変身をしていてくださっている。そこに、こじんまりした霊格体や、手で触ることのできる人格体があるわけではない。あるとすればそれはそれを信仰する者の意識の中においてであろう。
仏陀を呼ばなければ仏陀の救済にあずからない、というのではない。仏陀の名を呼ぼうと呼ぶまいと三郎の救済の、真っ只中にいるのが仏陀である。
三郎の救済のど真ん中に宇宙の全体がある。宇宙のハタラキ、パワーがある。宇宙のパワーの中に三郎の救済があるどころではないのだ。
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したがって、仏陀の名を呼ばずとも、仏陀のハタラキは働いているのである。
仏法というのは、一つは「仏陀が説かれた教え=説法」であるが、もう一つは「仏陀が説いた宇宙の真理そのもの、宇宙のエネルギーそのもの」でもある。これが三郎に働きづめに働いている。
三郎を生かしている力が仏法、あるいは仏陀であるから、空も海も山も川も仏陀なのである。宇宙中にあるものみながこぞってこぞって、三郎を生かし続けている。物質も非物質も、人も人の形をとらないものも。
三郎は、心配顔をしなくともいいのだ。不安がらなくともいいのだ。安心しきっていていいのだ。
それらみなが呼び合って呼び合っているのだから、三郎がわざわざ三郎の名を呼んでいる谺を聞こうとしなくとも、耳を澄ませば、救済の中心にいる三郎の耳には聞こえて来ているはずである。
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三郎がよいことをした、悪いことをしたという事実があったとしても、仏陀の法のパワーはそれの何万億倍、何億兆倍もでかい。三郎が能力を発揮して大仕事をした、あるいは無力を泣いて小さくなっている。そのどっちだっていいのだ。そんなことに左右されるほど仏陀の法は狭くはない。
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それでもなお、三郎はやっぱり「こんにちは~あ」を言う。山に向かってこれを発話すれば同じように返ってくる。
人に向かって挨拶をすれば、人もこれを返してくれる。三郎はこれでこころが安らいで機嫌を良くするという具合だ。