<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

それでいい それがいい

2014年07月10日 18時00分45秒 | Weblog
形見とて何か残さむ 春は花 夏ほととぎす 秋のもみじ葉  良禅師



良さまがご病気になられた。重篤である。
近隣の者が集まってくる。悟りに達した禅師さまはどんな死に方をなさるのだろう。
この世に未練を残さないというのが悟った者の常道である。
禅者はこの世が提供してきたさまざまな食膳を十分に堪能し尽くしているので、これ以上の不足はないはずである。
不足がなければ無執着になっておられるはずである。

良さまはそうでも良さまを慕う者は、禅師を失うことが辛い。
これからは誰を導き手としていけばいいのか。
遊んでもらった子どもたちは、これから誰を遊び相手としていけばいいのか。
そこで何か残していって下さいということになる。



残していくものは何もない。それでいい。それがいい。残せばそれが執着になる。

こちらが残さなくとも残っているものが百千ある。
春には桜が咲いて夏が来れば山に杜鵑が渡ってくる。秋は全山がもみじの錦だ。



わたしをそこに置かなければ万端は無事なのである。わたしをそこに置こうとしないことだ。
わたしをそこに置かなくとも春秋冬夏は巡っていく。
わたしをそこに置かなければ、あるあるあるになる。あるあるあるであふれることになる。
これでいい。これがいい。

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誠意と情愛に応えたいものだが

2014年07月10日 15時07分39秒 | Weblog
飛んでくる小鳥の名前を知らないから困る。雀やカラスや、目白、鶯、山鳩くらいは識別できるが、渡り鳥となるとお手上げである。聞いたこともないような美しい声で囀る小鳥の類は、名前を知っていればそれだけ親しみも増してくるはずである。わたしの住んでいるところは山里である。背後に山脈が連なっているし、南東の方角にも低い山々が連なっている。家の周囲は樹木が生い茂っているから、小鳥たちにはちょっとしたオアシスなのかも知れない。せっかくそうして親愛の情を示して飛来してくるというのに、宿の主人が皆目無知であるというのはいただけない話である。なに、図鑑は持っている。図鑑には、丁寧にCDまでがついていて鳴き声を再生して聞くことができるのだが、小鳥の類は多い。手当たり次第というわけにもいかない。それで結局は分からずじまいになるのである。二階の屋根を越す山桜のてっぺんで長々と歌を披露する小鳥もいる。いい声にうっとりする。うっとりしておきながら、「それで、きみの名前はなんというんだい」と聞き糾すのでは、やはりその小鳥の誠意と情愛に応えていないような気がするのである。
さっきも可愛い小鳥がやって来た。バイオリンソナタの1曲を奏でて行った。胸の空間が広がってうっとりとなった。これだけ愛を捧げられていながら、わたしはその恋人に窓から手を振ってやっただけで、住所氏名が不明なためにラブレターのお返しもできなかったのである。
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そうだとこの世がみずみずしく潤ってくる

2014年07月10日 12時39分28秒 | Weblog
庭の向日葵が2mを越すほどの草丈(くさたけ)になった。そのとっぺんさきに硬式テニスボールよりもやや大きめの花を着けている。黄色というよりはむしろ赤い。真っ赤ではない。赤褐色に近い。花は日を追うごとに円周を大きくして行く。四方に広げている葉っぱも象の耳のようにしている。それが風を受けてゆうらゆうら揺れる。中心の柱になる茎には、支柱を立てて紐で結んでやった。向日葵はどうしてこういう進化を選んだのだろう。太陽の光を全身に浴びやすいようにと考えて巨大化したのかもしれないが、安定性を欠いている。これじゃ、ちょっと強い風が当たったら、あっけなく倒れてしまうにちがいない。

キク科の一年草で、原産地は北アメリカ。茎には剛毛を生やしている。これはたぶん食べに来る虫を防ぐための考案だろう。種子は食用にもできる。乾燥させても太陽の油の匂いがする。別名、ひぐるま草、或いは日輪草。太陽を追いかけて回るというが、そうまでしなくとも十分光を浴びられる大きさである。しかし、そうして恋しい恋人の行く手を追っているとなるとひどく人間くさくて、そこに向日葵の意思のようなものが感じられてきて、なにかしらロマンチックである。植物に植物の意思はある。そんなふうに考えると、乾燥製品に水が加わったようで、途端にこの世が潤ってくるようだ。意思があれば、育てる人間に日ごとに話しかけをしているはずである。
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穏やかで万民平和な国があるとは信じられない

2014年07月10日 11時52分25秒 | Weblog
自らは未だ渡るを得ざるに先ず他(ひと)を渡す。自未得度 先度他 (じみとくど せんどた)



川に橋が架けてある。一本の木を二つに割って列べただけの平べったい粗末な木の橋である。

「おおい、おおい、こっちへ来れば橋があるぞ。この橋を渡れば向こう岸に着けるぞ」
一人の男が手を挙げて旅人を招いている。旅人は渡り終える。向こう岸についてにこにこして手を振っている。



向こう岸は涅槃(ねはん)の岸である。悟りの岸である。真理の世界である。ここで息をすれば安らぎを呼吸できる。果てしない迷妄に沈んでいなくともすむ。



果てしない迷妄に沈んでいなくともいい世界が、一本の木橋で繋がっている。ここを渡れ、と男は言って向こう岸を指し示している。



彼自らは、しかし、一向に渡って行く気色を見せない。彼がそこへ渡って行ってしまへば、この木の橋を見いだす者がいなくなってしまうからである。



こういう仕事をしているのが菩薩屋さんである。涅槃の岸に渡れば仏陀になれるのに、彼はならないままでいる。



観音菩薩、地蔵菩薩、虚空蔵菩薩、文殊菩薩、普賢菩薩、弥勒菩薩、月光菩薩、日光菩薩・・・菩薩の数はガンジス川の砂の数だ。



彼はしかし菩薩の名札を提げていない。「わたしが菩薩ですよ」を言わない。現一切色身三昧(げんいっさいしきしんざんまい)の検定試験を合格しているから、あらゆるものに変身できるのだ。マジシャンなのだ。



だから普通の人間になっていることもある。妻になっていることもある。子どもになっていることもある。友人になっていることもある。

人間以外になっていることもある。鬼になっていることもある。獣になっていることもある。蛇になっていることもある。虫になっていることもある。

草木になっていることもある。花になっていることもある。雲になっていることもある。海になっていることもある。川になっていることもある。



共通するのは語りかけてきていることだ。指し示していることだ。向こう岸に渡れる木の橋を指し示していることだ。



粗末な木の橋などを渡っていってもそこに涅槃寂静のおだやかな平和国があるとは信じられない、と言って聞かない人がいる間は、彼の菩薩屋さんは店を畳めないのである。


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繋がり考 繋がりは安全で温かい

2014年07月10日 09時16分13秒 | Weblog
どうして繋がっていたいなどと思うのだろう。小舟と小舟とが紐で繋がり合って台風の揺れを最小限に食い止めるように、ただただ身の安定を図るためだろうか。

とすればそれは防衛防御のためである。危険から身を守るためである。一人で孤立しているよりは、なるほど二人でいる方が巨大化による安全が確保される。

こころが通い合っていればそれはそれでその目的は達成される。通い合っていなければ、しかし、互の存在は獅子身中の虫になる。欺し合っていても繋がったように見せておくことは可能である。

恋人たちが手を繋ぎ合って歩いて行く。横断歩道くらいは、手を離して歩いたってよかろうと、傍目は考えるが、手はしっかりと繋がれている。これで血液さえも境界を飛び越えて交流して行くようである。身心が温まるのならけっこうなことだ。

繋がろうとしても、繋がるのを拒否されることだってある。そういうときにはメンツが潰れてしまいかねない。一方的には繋がれないのだ。相手の受け入れ態勢が十分に出来上がっておく必要がある。事前に愛情を注いでおかねばならない。

仲がいいことは、見ていても心地が良い。互いに背き合っているよりは合意を見せて仲良くしている方がいい。握手などはそれを効果的に表現する手段だ。

いたわり合うにはやはり身を寄せていなければなるまい。生きている間には悲しみもある、淋しさもある。強い風に浸食されることもある。これを慰め合えばこれを幾分かでも軽減することができる。であったらやはり、両者は繋がっているべきだ。



そこまで考えても、三郎は繋がれないでいる。



高校時代にみなが運動場に出て、男女が二つの大きな輪になってフォークダンスをしたことがあった。そのときにも三郎は手を握らなかった。手を離して踊った。踊りが下手だったということもある。女性と繋がって踊りを壊してはならないという警戒もあった。とにかく、繋がれないでダンスは終わった。惨めな思いが濁流になった。



人と人とが繋がり合う。友と友とが繋がり合う。組織と組織が繋がり合う。もっと大きな組織になる。これで経済効果が倍増するということもある。国と国とが繋がり合って共通の敵を防ぐということもある。



除け者にするには、手を繋いだ輪からその人を除外すればいい。除け者になりたくなければ、ともかくも輪を作って手を繋ぎ合っておくべきである。輪に、どんな人が加わっていようとも。輪がどんな目的を潜ませていようとも。悪意の人に扇動されて、輪が悪利用されていようとも。



繋がりは、一方で、束縛を意味している。個人の意思が働かないようにする手段としても活用される。大同団結が強制される。国家が戦争に駆り立てていくためには、従って、この種の結束を促してくる。こうしておけば、この束縛によって自由意思を封殺しておくことが可能になる。彼、あるいは彼女はこれに盲従するしかない。



繋がりは連帯を乱さないためには不可欠である。その代償として連帯に加わっている者全員の身の安全がはかられる。死ねばもろともという側面もあるけれども。



人と繋がれない三郎は浮浪者である。波に浮いて漂っている泡である。しかし、浮浪者は束縛を離れていることができる。自分の意思という者を持って動くことができる。自由で気ままだ。ここが優れている。ところがその行動は小さくてその上無力だから、社会を動かしたりはできない。せいぜい蔑視されるのがオチだ。彼は憐れみを受けることになる。



憐れみを受けたくなければ全体化することだ。手を繋ぎ合ってともに、楽しい行進曲を口ずさみながら行進することだ。寄らば大樹の陰ということもある。間違った方向に進んでいようとも個人の責任は回避できる。



恋人たちが手を繋ぐ。二人は麗しい美しい愛を体現する。子どもができる。家庭が生まれる。繁栄が構築される。幸福が誕生する。



仏教では、究極、それすらも執着とした。愛は執着であるとした。束縛であり、繫縛とした。己の自由意思を持つことを最上とした。しかし、それで温かみを損ねたというところもあった。

時代が下がるにつれて、個人の意思を尊重する自利の幸福よりも、社会と繋がり合って他者を幸福にする利他に重きが置かれるようになった。これを大きな乗り物とした。沢山の人が幸福を繋げ合うことに新たな価値を見いだして行った。
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まだこころの港につながれたままでいる

2014年07月10日 08時43分43秒 | Weblog
小椋佳の「愛燦々」を聞いた。いい曲だと思った。

♪ ・・・愛燦々とこの身に降って こころ秘かな嬉し涙を流したりして・・・ああ、過去たちはやさしく睫に憩う・・・それでも未来たちは 人待ち顔して微笑む・・・ ♪

いい詩が書ける人はいいなあと思う。こんないい詩が書けるようになるにはどうすればいいか。彼はいい詩を書いていい曲をつけて、いい気持ちになってこれを歌うことができる。

洞察力が鋭いのかなあ。三郎にも目がついているがものを見ていないに等しいので、人生がペンもて綴ってくれる詩が読み取れないでいる。

詩の風景が無限に広がっているが、これを見る目が開いていない。音楽が詩を宿して深々と空間を流れていくが、これを聞く耳が発達していない。

もったいない話である。

しかし、詩の風景を読み取ることのできる作詞家の詩をこうやってほれぼれと聞くことはできる。これでいいではないか。これでいい。

昨夜、小椋佳の「愛燦々」を聞いた。いい曲だと思った。今朝になってもまだこのしとやかな曲がこころの港につながれたままだ。
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