<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

死の門ではなく、不死の門が開かれている

2016年05月09日 06時15分41秒 | Weblog

「不死の門は開かれた」そう宣言してブッダはベナレスに向かわれた。彼は彼が悟ったこの不死の門については最初誰にも語るまいと思っていたが、梵天たちは勧請を止めなかった。ブッダはとうとう決意された。闇に覆われている者たちに語って彼らの闇を取り除こうと決意されたのだった。

死の門しかなかったのだ、それまでは。ブッダがブッダに成ったときに初めて不死の門がそこに見えたのだった。そこにそれがあったのだ。ないとばかりに思っていたものがあったのだ。死で終わりではなかったのだ。不死があったのだ。彼は躍り上がってよろこんだに違いない。だが人々に不死を説いて聞かせることは容易ではなかった。

玉城康四訳の「ウダーナ」経典にこうある。釈尊が菩提樹下で成覚されたあと七日目に三つの詩偈が口を突いて出て来ます。これがそうです。

「実にダンマが、熱心に瞑想しつつある修行者(=釈尊)に顕わになるとき、彼の一切の疑惑は消滅する。というのは彼は縁起の法を知っているから」

「実にダンマが、熱心に瞑想している修行者に顕わになるとき、そのとき、彼の一切の疑惑は消滅する。というのは、彼はもろもろの縁の消滅を知ったのであるから」

「実にダンマが、熱心に瞑想している修行者に顕わになるとき、そのとき、彼は悪魔の軍隊を粉砕して、安立している。あたかも太陽が虚空を輝かすごとくである」

ダンマは「法」と訳されています。宇宙のハタラキのことです。わたしを殺さずに生かそう生かそうとしているエネルギーの総力のことです。見よ見よ見よとわたしに働きかけてくる大いなる智慧のハタラキのことです。

不死の門が開かれている。その釈尊の宣言をさぶろうは今朝もう一度聞こうとしています。生きているわたしが死で終わるのではない、ということを。生かそう生かそうとしているエネルギーが総力でわたしに働きかけてきている、ということを。わたしに智慧の眼を開かせようとしている、ということを。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

彼は永遠を生きていたいのだろう

2016年05月09日 06時00分54秒 | Weblog

雨音がしている/ときおりは風の音も/そこから遠く遠くを思い/永遠を聞き出そうとしている男がいる/いまこの瞬間にも彼は/永遠を生きていたいのだろう/行くところ行くところ/ぶつ切りされた瞬間が小石になって転がっているので/この不毛の荒野を歩くのに退屈してしまったのだ/

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

わたしは瞬間を生きている者なのか

2016年05月09日 01時32分40秒 | Weblog

いまは真夜中です。雨の音がしています。軒を打つ音です。行き過ぎる風もあるようです。長かった連休も終わりました。今日は5月9日になっています。わたしは風邪に押されているばかりでした。昨夜もからだが、熱くて、だるしくて、きつくて、どうしようもありませんでした。いまは少し熱が引いています。

わたしは永遠を生きている者なのか、瞬間を生きている者なのか。どちらだろうと思います。雨の音を聞いているわたしは後者ですよね。しかしそこに法を聞いてもいます。そのわたしは前者です。永遠というところから雨がわたしに降ってきてわたしのこころを潤そうとしています。わたしに永遠の慰めを恵もうとしています。それを受けているわたしは、永遠を生きている者とも呼べそうです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする