「不死の門は開かれた」そう宣言してブッダはベナレスに向かわれた。彼は彼が悟ったこの不死の門については最初誰にも語るまいと思っていたが、梵天たちは勧請を止めなかった。ブッダはとうとう決意された。闇に覆われている者たちに語って彼らの闇を取り除こうと決意されたのだった。
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死の門しかなかったのだ、それまでは。ブッダがブッダに成ったときに初めて不死の門がそこに見えたのだった。そこにそれがあったのだ。ないとばかりに思っていたものがあったのだ。死で終わりではなかったのだ。不死があったのだ。彼は躍り上がってよろこんだに違いない。だが人々に不死を説いて聞かせることは容易ではなかった。
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玉城康四訳の「ウダーナ」経典にこうある。釈尊が菩提樹下で成覚されたあと七日目に三つの詩偈が口を突いて出て来ます。これがそうです。
「実にダンマが、熱心に瞑想しつつある修行者(=釈尊)に顕わになるとき、彼の一切の疑惑は消滅する。というのは彼は縁起の法を知っているから」
「実にダンマが、熱心に瞑想している修行者に顕わになるとき、そのとき、彼の一切の疑惑は消滅する。というのは、彼はもろもろの縁の消滅を知ったのであるから」
「実にダンマが、熱心に瞑想している修行者に顕わになるとき、そのとき、彼は悪魔の軍隊を粉砕して、安立している。あたかも太陽が虚空を輝かすごとくである」
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ダンマは「法」と訳されています。宇宙のハタラキのことです。わたしを殺さずに生かそう生かそうとしているエネルギーの総力のことです。見よ見よ見よとわたしに働きかけてくる大いなる智慧のハタラキのことです。
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不死の門が開かれている。その釈尊の宣言をさぶろうは今朝もう一度聞こうとしています。生きているわたしが死で終わるのではない、ということを。生かそう生かそうとしているエネルギーが総力でわたしに働きかけてきている、ということを。わたしに智慧の眼を開かせようとしている、ということを。