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今日も雨。いつまで降り続くのだろう。外に出ていけない。農作業が出来ない。秋野菜の種蒔きが遅れてしまう。
2☆
白菜、キャベツ、ブロッコリなどは、雨が止んだときに、播き終わったけど。大根類がまだである。大根は移植が出来ないから、直接畑に種蒔きをしければならない。その前に夏草を除去しておかねばならない。
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今日も雨。いつまで降り続くのだろう。外に出ていけない。農作業が出来ない。秋野菜の種蒔きが遅れてしまう。
2☆
白菜、キャベツ、ブロッコリなどは、雨が止んだときに、播き終わったけど。大根類がまだである。大根は移植が出来ないから、直接畑に種蒔きをしければならない。その前に夏草を除去しておかねばならない。
ああいい、いいいい、うういい、おおいい、目にうつくしい風景を見させている。これでしばらくは、うっとりしていられる。
☆
ああいい、いいいい、おおいい、うううう。生涯、これだけで過ごして行けたらいいものを。そうさせようという意思が、我々人間界を取り巻く自然界に、きっぱり働いているのかもしれない。
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我が家の北方に連なる連山に、長く長く山霧が立ちこめている。そこに幽邃幽玄な世界が髣髴としている。この風景を目に見させている。目がうっとりとしている。
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おれは神さまになって、にんげんの目にうつくしい風景を見させて、悦に入っている。こんなこともできるのだ。しかしもう夕暮れだ。まもなく薄暗くなって日が沈んで行く。
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ひさかたの雨の降る日をただ独り山辺に居れば鬱(いぶ)せかりけり 大伴家持
☆
「ひさかたの」は枕詞。漢字にすると「久方の」或いは「久堅の」。あめ、あま(=天)、そら(=空)にかかる。転じて、天空に関係のある「月」「日」「昼」「雨」「雪」「雲」「霞」「星」「光」または「夜」に掛かる。「桂」「都」「鏡」にも掛かる。
修辞法の一つ。口調を整えるのに役立つ。
2☆
「鬱(いぶ)せかる」は気持ちが晴れ晴れとしないことか。気が塞ぐことか。もともとは、草木が盛んに茂る様を言った。あまりに茂って暗くなって先が見えなくなって、塞がれたしまった、そういうことから転移したのだろうか。知らないが。沈鬱、鬱勃などの熟語がある。鬱勃は、雲などが盛んに起こる様子。胸中に満ちた意気込みが外に溢れようとする様子。
3☆
紀郎女(きのいらつめ)なる女性に送った相聞歌。こうやってわたしはひとりで悶々としているから、すぐにも会いに来て欲しいという意図が隠されているのだろうか。そういう女性に恵まれていたとすれば、作者は幸せな男性ではないか。このさぶろう老爺はそういう恵まれた状況にはない。ずっとなかった。あはれ。
この時、家持は新しい都に居て、女性は平城(なら)京にいたとされているから、距離があったと思われる。
4☆
当地の山の辺は今日もまだ雨。雨が一日、降ったり止んだりしている。ひとりで居て、鬱々としている。歌でも詠むか。その歌も生まれてこない。
当県でも、すでに豪雨災害救援ボランテイア活動が始まっている。全国の篤志家が被災地に集結している。新聞が報じている。偉いなあ。偉いなあ。偉いなあ。
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世の中棄てたもんじゃないなあ。善意の人が多いなあ。即行動している。頭が下がる。僕はそれをしない。見ているだけの人に終始する。
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交通費も掛かるだろうに。みなさん手弁当で。濡れた畳なんて相当重いだろう。汚れていて臭気を発してもいるだろう。暑いのになあ。重労働だろうになあ。報酬ももらわない。偉い人がいるもんだなあ。
7
神との合一はやがてそのときが来る。そこで人が神に合一する。そして自己を棄却する。捨て去る。エクスタシーが充満充溢する。死はそのときに訪れる。神は仏としてもいい。天としてもいい。わたしを超えている存在である。わたしを地上へ、ここへ、送った存在である。
わたしを悪に遇わせて、苦に浸食させて、修行を連続させて、そしてそれらが悉く完了する。
エクスタシーは合意の合一である。神と人とが合意するのである。神とわたしが合一に合意するのである。
4☆
エクスタシーはギリシャ語。ekstasis。「外」と「立つ」の合成語。辞書にはそうある。魂が世界を超えてある状態だとか。
5
魂が離脱したの意。人間が神と合一した「忘我境」。神秘的なこころの状態を指している。「有頂天」とも「恍惚」とも「法悦」とも。
6☆
相手を憎んでいるときには、愛しむことができない。恨んでいるときにもこれができない。敵としているときにも、できない。差別しているときにも、軽蔑しているときにもこれができない。愛しむ人間の心が、この世の毒薬を、除去してくれるのだ。一掃してくれるのだ。
1
人を愛(いと)しむ。人が人を愛しむ。愛しむ人を愛しむ。触れて愛しむ。抱いて愛しむ。交わって愛しむ。それで合一のエクスタシーになる。憎悪ではなく怨嗟でもなく、尊敬と相愛が合一して、完成する。
2☆
触れずにいてもそうなれるかもしれない。抱かずにいてもそうなれるかもしれない。どの段階にあっても人は人を愛しむことは出来るかも知れない。エクスタシーは迎えられるかもしれない。
3☆
この瞬間は、生きていることが嬉しくてたまらなくなってしまう瞬間である。すかさず忘我が訪れる。己のことを勘定にいれずにすむことになる。勝ち負けをも棄てる。
1
夕闇は路たづたづし 月待ちて行かせ吾背子(わがせこ)その間(ま)にも見む 大宅 女
☆
大宅女(おおやけめ)は豊前国の娘らしい。万葉集に、この歌を含めて2首採択されている。
2
「たづたづし」は現代語の「たどたどしい」に近いだろうか。「辿るに困難な」ことか。吾背子は恋する人、もしくは夫。ともかく親しい間柄の男性のこと。
3
おんなの人ならではの甘ったるい、寄りかかった、やさしい感情のあふれる、恋歌になっているようだ。
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いまからお帰りになられるのですか。夕闇が来て道も見えづらくて歩きづらいでしょう。ねえ、もうすぐ月も昇って来ます。それまで此処に居て下さいましな。マイダーリン、うふふふ、わたしはその間だけ長くあなたさまをいとしんで見つめていられますもの。
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女が好きな男に出遭うと、これだけ甘い糖分が精製される。男が好きな女を待っているときにもそれは同じだろう。異性を恋するにんげんの体内は、まるで砂糖の精製工場のようだ。万葉集の歌にはそれがまことに簡明直截である。直流電流が走っている。
月読みの光に来ませあしひきの山を隔てて遠からなくに 湯原 王
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「月読み」は月のこと。月の明るさから何かを読み取っていたからなのだろうか。「あしひきの」は山や峰に掛かる枕詞。「ひき」は「痛い」の意があるらしい。
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湯原王は奈良時代前期の万葉歌人。志貴の皇子の子。万葉集には19首が採られている。
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「どうぞ、こちらにお越し下さい、待っています」ということを歌にして相手に贈ったのだあろう。月が山の端に昇ってきました。光が来る道を照らしてくれるでしょう。山を隔てたところといってもそう遠くはないのですから、と。おいでおいでを要求している。相手は男性かも知れないし女性かも知れない。ともかく会いたい人なのだろう。作者はまもなくして、月明にその人の跫音を聞く。そして寂しさを癒し合う。
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歌は難しくされていない。むしろ単刀直入だ。なのに、雑ではなく、気品がある。織り込まれたことばは、シルクのように手触りがいい。こんな恋文を書ける人が羨ましい。受け取る人も嬉しいだろう。
「老いの時間は何とぜいたく」
家にじっとしている、ほとんど一日中。職を退いたらこうなった。でも、これがつまらないのでもない。だから、嫌にしてはいない。寧ろ、溌剌として伸び伸びしている。半袖半ズボンの軽装をして足を投げ出す。起きてから寝るまでぼんやりでいい。時間の居間も空間の座敷もがらんとしている。空っぽだけど、それで充満している。悪くない。左右からの命令がない、強制がない。全部自己創意工夫だ。老いてみてこんな贅沢が味わえるとは思ってもいなかった。湧き上がる雲を見ている。緑深い山々に心奪われている。飛び回るナツアカネに親愛の情を送る。蝉の祝祭曲を聞く。「初めまして」「やあ初めまして」の連続だ。世上に掻き乱されないで済む分は、本来の自分を生き返らす努力に回す。外に向いていた乱視の目を、こころもち内向きにする。深呼吸して目を閉じて一歩、眼球の奥へ踏み込めば、此処がまあ深いこと、広いこと! 人は、最後に贅沢な老いの時間を過ごす。
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これは8月29日付けのN新聞「こだま欄」に掲載されたわたしの投書エッセーである。途中の<全部自己創意工夫だ>のところは割愛させられていた。20字x20行の規定がある。それには当て嵌まっていたのだが。すっきりして、それでよかったのかもしれない。投稿して1月以上経っていたので、もうてっきり没になったものだと諦めていた。掲載通知状と拡大コピーと謝礼金1000円がが送られてきた。
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福岡市内に住んでいる高校時代の同級生が、これを読んで、すぐに葉書をくれた。懐かしく、且つ嬉しかった。読んでくれた人から便りももらうのは嬉しいものだ。また次を書きたくなってしまう。